世田谷区若林・松陰神社

幕末期、明治維新へと導いた人々に関係する世田谷区の寺社を巡ります。
松陰神社(若林4-35-1)は、東急電鉄世田谷線・松陰神社前駅から徒歩5分程に鎮座、幕末期の志士・吉田松陰を祀る社として知られ、学問の神として篤く信仰されています。
鎮座地一帯は、江戸前期(寛文12年1672)に長州藩が土地を買い藩主別邸が置かれた所で、長州毛利氏の官位「大善大夫」に因み、大夫山・長州山とも呼ばれていました。

松陰は、日米通商条約を批判、老中・間部詮勝(鯖江5代間部詮熙5男)暗殺の企て等の“安政の大獄”により、安政6年(1859)伝馬町で斬首刑(享年30歳)に処せられ小塚原回向院に埋葬されました。
文久3年(1863)、門弟高杉晋作らが松陰の安住地として、大夫山(現在地)西側の楓の傍らに移葬、明治15年(1882)墓の東側に小堂を建立、松陰神社としました。
祭神「吉田寅次郎藤原短矩方命」を安置。

折しも参拝日は松陰夏祭り(8/5~6)で、神社周辺や境内にはテントが張られています。
南向きの社頭に「社号標」、島木に吉田家の家紋「五瓜に卍」の明神鳥居。
世田谷区若林・松陰神社社頭
















参道右の神輿殿には、創建116年を経て完成した神輿2基を安置、神楽殿板壁前には夏祭りのライブペィンテイングで、松陰の幼名(虎之助)に因む「松林虎図」が掲げられています。
世田谷区若林・松陰神社神楽殿















参道沿いに、明治23年に彫刻家・大熊氏廣氏製作の松陰像(石膏)を、鎮座130年記念で鋳造された吉田松陰像(ブロンズ)。
左手を帯に挟み、右手に本を持つ沈思黙考の表情です。
世田谷区若林・松陰神社吉田松陰像
















左に手水舎。
杉並区若林・松陰神社手水舎
















手水舎後方に、旧大山道(世田谷通り)から当社への分岐点に建立された「松陰神社道」と刻まれた道標、右に明治41年(1908)思想家・徳富蘇峰(猪一郎)が、「吉田松陰」の発刊に伴い植樹と共に建立した「景慕英風植樹表誠碑」が並びます。
世田谷区若林・松陰神社道標他

















社殿手前、参道を挟み西~東に26基、社殿前の参道沿いに6基、竿に書家高田竹山による八分隷書体が刻まれた石燈籠32基が並びます。 
松陰五十年祭にあたる明治41年(1908)、毛利元昭公(毛利藩14代毛利元徳の長男)、吉川經健公(周防岩国藩2代)、松下村塾門下の伊藤博文 木戸孝正 山県有朋 桂五郎などにより奉納されました。
世田谷区若林・松陰神社奉納灯籠
















門弟等により造営された旧社殿は、本殿の内陣として遺されています、現社殿は昭和2~3年(1927~8)造営、拝殿は切妻造り。
杉並区若林・松陰神社社殿

















神紋「五瓜に卍」を染め向いた神殿幕。
世田谷区若林・松陰神社拝殿神殿幕
















拝殿内。
世田谷区若林・松陰神社拝殿内
















社殿左(西)に社務所。
世田谷区若林・松陰神社社務所















社殿右(東)に昭和17年築「松下村塾」。
玉木文之進(松陰の叔父)の私塾を引き継いだ松陰が、安政3~5年(1856~8)の約2年半、明治維新の原動力となった多くの門弟に、‘生きた学問’と云われる教育を施した萩市・松陰神社の松下村塾を模した建物。
世田谷区若林・松陰神社松下村塾
















西側に左手に本、右手を膝に置き、羽織・帯刀の松陰像、参道沿いの像とは顔や表情も全く違います。
世田谷区若林・松陰神社松下村塾の松陰坐像
















講義室東小壁には、門弟達に示す「教育の目的」を記した額、君臣の義(君主、臣下の間で守るべき正しい道)・華夷の弁(日本・外国の違いを明確にする事)・奇傑非常の人(人並み以上の優秀な人材)が掲げられています。

又、床の間には、安政6年江戸に護送される前、同門・松浦松洞が肖像画を、松陰が賛を記した条幅が掛けられています。
「大意」『私の命は国家に捧げており、生死に関係なく忠誠心に変わりはない。至誠を尽くせば心を動かさない者はいないと孟子は述べているが、古来の賢人達には及ばないまでも、その追い求めた道を精一杯追慕したい』
これら(肖像と自賛6幅・賛2幅)は親族と門下生に形見として与えられました。
世田谷区若林・松陰神社松下村塾講義室

















又、講義室の前庭には、松陰先生五十年祭記念碑・〃百年祭記念碑、玉木正之乃碑(文之進2代目)。
世田谷区若林・松陰神社松下村塾石碑
















境内左側(西)、鳥居の先で直角に右(北)に折れると松陰先生他列士墓所です。
世田谷区若林・松陰神社松陰らの墓域入口
















元治元年(1864)禁門の変の後、幕府は長州征伐の折に松陰先生以下の墓を破壊しました。 4年後の明治元年(1868)、木戸孝充らにより修復され、入口にはその際に木戸孝充が奉納した明神鳥居があります。
世田谷区若林・松陰神社・松陰等の墓域入口の鳥居

















左柱「木戸大江孝充」、右柱「大政一新之歳」と刻まれています。
世田谷区若林・松陰神社の松陰墓入口鳥居左柱世田谷区若林・松陰神社の松陰墓域入口の鳥居右柱
「墓域案内図」
①吉田寅次郎藤原短矩方(号・松陰 享年30) ②小林民部少輔(小塚原回向院より改葬 享年52) ③頼三樹三郎(儒者 享年35) ④来原良蔵(長州藩士 享年34) ⑤福原乙之進(長州藩士 享年27) ⑥綿貫治良助(長州藩士 享年29) ⑧長州藩邸没収事件関係者慰霊碑
⑬徳川家寄進の石燈籠一対、水盤 ⑭木戸孝充奉納の鳥居(上の写真)
世田谷区若林・松陰神社松陰先生墓案内図
 
















正面(北)玉垣内に列士墓所(①~⑧)、参道際左右の石燈籠一対と、水盤(写真右下)は、徳川氏から墓所破壊の謝罪の意として奉納されました。
世田谷区若林・松陰神社の松陰墓域と幕府奉納手水鉢
















松陰(吉田寅次郎藤原短矩方)墓。
世田谷区若林・松陰神社の松陰墓域
















水盤前を右に進むと、松陰亡き後に松下村塾を監した⑦中谷正亮墓(長州藩士 享年35)。
世田谷区若林・松陰神社松陰先生墓地・中谷正亮墓















奥には、長州藩士として長州征伐・戊辰戦争に参加した政治家・桂太郎が、明治37年(1904)建立した⑩「長藩第四大隊戦死者招魂碑」。
世田谷区若林・松陰神社烈士の墓の長藩第四大隊戦死者招魂碑
















御朱印を拝受の際、檜材の栞も頂きました。
松下村塾・講義室の床の間に掛けられていた条幅を“しおり”とした物です。
世田谷区若林・松陰神社御朱印松陰しおり
烈士墓所内に招魂碑を建立した桂太郎は、吉田松陰を敬愛し、「崇敬する松陰神社隣接地に葬るべし」との遺言により、西側の若林公園に葬られました。
陸軍大臣・内閣総理大臣等を歴任した桂太郎墓(区史跡)。
世田谷区若林公園内・桂太郎墓


















更に西へ250mの勝國寺へ。
吉良氏がここが世田谷城の東北に当たり、吉良氏が裏鬼門除けに薬師如来を祀り、丸香山薬師院を創建。後、勝国寺に改称されました。
世田谷区世田谷・勝國寺山門
















墓地には、吉田松陰と親交深かった、萩藩・維新の志士儒者「土屋蕭海(しょうかい)(矢之助)墓」があります。
世田谷区世田谷・勝國寺の土屋蕭海墓





















南国の花・ハイビスカスのチュニック

夏にピッタリ、落ち着いたトーンのハイビスカスの花柄チュニックです。
チュニック

生地:ガーゼ(ベージュ・ブラウン)

デザイン
前身頃は前開き(ボタン4個)、襟ぐりはバイヤス始末、ハイウエスト切り替えでギャザーを寄せています。

前身頃を後ろ見頃より2㎝短く、ゆったり6分袖にカフス付(1㎝巾)、着丈66㎝。



コットン素材の中でも、ガーゼは織が荒目なのでほつれやすい欠点はありますが、軽くて酷暑の時期はとても凉しい素材です。



















港区白金・白金氷川神社

白金氷川神社(白金2-1-7)は、桜田通り(R1号)から恵比寿通り(都305号)へ進んだ左側、寺や住宅が建ち並ぶ閑静な一角に鎮座、白金高輪駅からも徒歩数分です。
日本武尊が東征の折、武蔵国一ノ宮(大宮・氷川神社)を遥拝した旧跡の当地に、白鳳年間(673~85)創建されたと伝わる古社。明和9年(1772)に発生した江戸三大火事の一つ・大円寺の大火で焼亡しましたが、江戸後期に再建されました。
江戸期には白金村 白金台町 今里村等の鎮守として崇敬され、明治5年(1872)村社に列格。
然し、昭和20年の戦災で、江戸後期再建の社殿等は焼失し、昭和中期に社殿や参道などが竣工されました。

家内安全 病気平癒 交通安全等に御霊験あらたかな祭神「素盞鳴尊 日本武尊 櫛稲田姫尊」を安置。
北向きの社頭、島木に神紋「三ツ巴紋・丸に土佐柏紋」入りの明神鳥居。
港区高輪・品川氷川神社社頭
















参道口に昭和15年(1940)建立「狛犬」、吽形(左)は角をもっている。
港区高輪・高輪氷川神社鳥居狛犬吽港区高輪・高輪氷川神社鳥居狛犬阿
石段上ると安永6年(1777)建立「狛犬」。
港区白金・白金氷川神社境内狛犬吽港区白金・白金氷川神社境内狛犬阿
植え込みがある為、阿形(右)は右寄りから撮りましたが、尾の形は同じでも高さが違っています。
港区白金・白金氷川神社鳥居狛犬吽バック港区白金・白金氷川神社阿バック
左に自然石をくり抜いた手水鉢を置く銅葺屋根の手水舎。
港区白金・白金氷川神社手水舎
















広い境内の東・南・西側三方は豊かな樹木に覆われています、銅葺の緑青が美しい昭和33年(1958)造営、入母屋造りの拝殿。
港区白金・白金氷川神社社殿















鳥居や賽銭箱には、土佐藩・山之内氏の家紋と同じ「丸に土佐柏」です。 江戸期、白金には土佐藩中屋敷がありましたが、神紋と家紋の関係があるのか不明です。
港区白金・白金氷川神社拝殿賽銭箱
















向拝。
港区白金・白金氷川神拝殿向拝















千木・鰹木の乗せた流造りの本殿。
港区白金・白金氷川神社本殿
















社殿左(東)に社殿2社が並ぶ境内社「建武神社」。 南朝の初代・後醍醐天皇 護良親王(後醍醐天皇の皇子) 建武新政の尽力者・楠正成公等203柱の吉野朝廷の緒忠臣を祀っています。
港区白金・白金氷川神社境内社建武神社
















春日造り社殿が並ぶ建武神社。
港区白金・白金氷川神社境内社建武神社
















右(東)には、商売繁盛の祭神「倉稲魂命」を祀る境内社「稲荷神社」。
港区白金・白金氷川神社境内社稲荷神社
















社殿前には玉・子取りの神使「狐」。
港区白金・白金氷川神社境内社稲荷社
















傍らに大小の神使「狐」。
港区白金・白金氷川神社境内社稲荷社狐
















御朱印。
港区白金・白金氷川神社御朱印
























港区高輪・丸山神社と古寿老稲荷神社

メリーロードを下り(北上)、東海大の西側の丸山神社、天神坂途中に鎮座する古寿老稲荷神社を参拝します。

その前に東海大学の先、三叉路角に趣ある「とらや」の建物があります。 1F店舗屋根と右建物の屋根は銅板葺、2・3Fは塗込漆喰で、3Fに美しい縦格子が付けられています。
港区高輪・高輪虎屋
















東側から右建物を見ると、縦格子の切妻造り2F建ての町屋形式。
港区・虎屋
















左の都営高輪アパートが建ち並ぶ敷地は、旧肥後熊本藩下屋敷跡です。 元禄16年(1703)屋敷内で大石内蔵助(良雄)ら16名が自刃、入口には「大石良雄等自刃ノ跡碑」があります。
港区・大石良雄自刃ノ跡碑
















丸山神社(高輪1-21-10)は、文禄3年(1594)芝西久保丸山竜土(港区愛宕山付近)の地に建立された医王山廣岳院の境内に、全梁上人が家康公の命を受け創建した事に始まります。

承応2年(1653)江戸城下の整備に伴い、芝二本榎(後に二本榎→(現)高輪1丁目)の換地に廣岳院と共に移転し、二本榎丸山神社と称し地域の氏神として篤く崇敬されてきました。
家内安全 防火 商売繁盛 学業成就の御霊験あらたかな祭神「天皇皇大神 宇迦之御魂命(別殿) 誉田別尊 白山吡咩命 天児屋根命 秋葉大神」を安置。

社頭は南西向き、入口左に神楽殿。
港区高輪・丸山神社社頭
















鳥居(靖国鳥居)は昭和27年造立、右に「三ツ巴紋」を陽刻した明治32年造立「手水鉢」を置く手水舎。樋からの雨水が天水桶(明治32年)に流れる様になっています。
港区高輪・丸山神社手水舎
















高欄を廻らした入母屋造り拝殿。
港区高輪・丸山神社拝殿
















大正9年(1920)奉納の扁額「丸山神社」。
港区高輪・丸山神社拝殿扁額
















目・口に彩色が施された向拝「龍」。
港区高輪・丸山神社拝殿向拝













左木鼻「唐獅子」、持ち送り「鳥」。
港区高輪・丸山神社左木鼻















右木鼻。
港区高輪・丸山神社右木鼻














境内は狭いですが、西側から土蔵造り本殿が拝見出来ます。
本殿左に伏見稲荷大社を勧請した別殿・通力稲荷神社。弘化2年(1845)死者800人以上の犠牲者を出した青山火事後、別殿として再建されましたが、関東大震災の被害を被り、昭和初期に再建されました。
商売繁盛の祭神「宇迦之御魂命」を安置。
港区高輪・丸山神社本殿
















扁額「通力稲荷社」。
港区高輪・丸山神社通力稲荷社扁額














社殿前の小さな狛狐、共に子取りで阿吽が逆になっています。
左(阿形)は子取りと鍵、右(吽形)は玉・子取り。
港区高輪・丸山神社通力稲荷神社左狐港区高輪・丸山神社・通力稲荷神社右狐
阿形:霊力を引き出す鍵に前足を掛け、そこに仰向けで寝そべる子狐。
港区高輪・丸山神社・通力稲荷神社前狐の子
















吽形:親狐と共に小さな体で玉に足を掛ける子狐。
港区高輪・丸山神社右狐の子
















社殿西側には昭和17年奉納、小さな狛犬が支える龍の彫刻を施した大きな額。
港区高輪・丸山神社別殿通力稲荷社横の奉納額
















西側に廣岳院、路地向かいは社務所ですが、御朱印の対応はしていないとの事でした。
往時、菅原道真公に関する祠があったことに因む天神坂を下ります。
港区高輪・天神坂上
















坂下手前に、祭神「宇賀御魂命」を祀る古寿老稲荷神社(高輪1-1-11)。
江戸初期の延宝6年(1678)頃、麻布飯倉町から当地に遷座、小女郎稲荷と称していました。一帯は関東大震災や戦災等にも難を逃れていることから、火除の神、商売繁盛の神として信仰されています。
港区高輪・古寿老稲荷神社社頭

















扁額を掲げた木造の台輪鳥居。
港区高輪・古寿老稲荷神社の鳥居
















様々な形の「纏」と奉納者名が刻まれた玉垣、地域から火除の神として篤く信仰されているのが分かります
港区高輪・古寿老稲荷神社の玉垣
















左は巻物、右は玉取り、其々の台石にも2匹がいる神使「狐」。
港区高輪・古寿老稲荷神社狐吽港区高輪・古寿老稲荷神社狐右
両開き扉に火灯窓付の拝殿。
港区高輪・古寿老稲荷神社拝殿


















拝殿内、小壁には消防提灯が見えます。
港区高輪・古寿老稲荷神社拝殿内
















自転車で上るのは難儀です、きつい勾配の天神坂。
港区高輪・古寿老稲荷神社境内から天神坂
















桜田通り(R1号)を右折して、白金氷川神社 へ。



港区高輪・長佑山承教寺

高輪神社からは桂坂(高輪2丁目と3丁目の境)を上り、高輪台小学校の北側の長佑山承教寺へ向かいます。
承教寺(高輪2-8-2)は、日圓上人により正安元年(1299)芝西久保(虎ノ門))に創建され、承應2年(1653)現在地に移転しました。
江戸中期の延享2年(1745)、六道火事により本堂等が焼失しましたが、山門 仁王門 鐘楼は難を逃れ現存しています。
本尊「曼荼羅 釈迦如来像図(社宝 英一蝶筆)」を安置。

西向きの山門、大棟に「井桁に橘紋」入り。
港区高輪・長祐山承教寺山門

















往時、小高い高縄原にある当寺には、旅人達からも目印となる2本の榎があり、いつしか「二本榎承教寺」とよばれるようになりました。 後、地名も榎に因む「二本榎」になり、枯れた後もその地名が残りましたが、昭和22年(1847)の地番変更で「高輪」に変更されました。

昭和42年、当寺の東60mの黄梅院に夫婦榎が新たに植樹され、石碑も建立されましたが、後、その榎も枯れ死しています。
入口左に黄梅院から移された「二本榎の碑」があります。
港区高輪・承教寺入口の二本榎の碑
















山門前には明らかに狛犬とは違う、牛の様にも見える(くだん)(建立年代不明)。
港区高輪・承教寺山門虎吽港区高輪・承教寺山門の虎阿
耳は小さく、足は牛・馬・鹿の様です。
港区高輪・承教寺左件















狛犬は阿・吽形ですが、左右同じです。
港区高輪・承教寺件右















とても人の顔には見えません、顔が大きく、後姿も左右全く同じの半人半牛像(♂)です。
港区高輪・承教寺件前から港区高輪・承教寺件バック
古来より各地で知られ、件の画を貼っておくと「一切の災いから逃れ、大豊年となる」と人々の間に広まり、画は飛ぶように売れたそうです。
江戸後期(天保7年 1836)の瓦版には下記の様に書かれています。
『大豊作を志ら須 件と云獣なり 丹波國与謝郡行集板 天保7申十二月丹後の國倉橋山の山中尓図の如く加ら堂゛ハ牛 面者人尓似當る件といふ獣出たり 昔宝永二年酉の十二月ニも此件出亭り翌年分豊作打都ゞきしと古記書ン見衣利尤件といふ文字ハ人遍ニ牛と書天件と讀須也・・・・・・(Wikipedia)より)』
件瓦版
















赤門とも称される仁王門(八脚門)。
港区高輪・承教寺仁王門正面
















仁王像。
港区高輪・承教寺仁王門吽港区高輪・承教寺仁王門阿
前庭は一面の芝生です、東側からの仁王門。
港区高輪・承教寺仁王門裏側から
















東に伸びる参道正面に天明元年(1781)再建「本堂(宝形造り)」、左(北)側に鐘楼。
港区高輪・承教寺本堂・鐘楼
















軍配?が描かれた鐘楼の蟇股。
港区高輪・承教寺鐘楼の蟇股















縦帯に「武州荏原郡 長佑山承教寺」。
港区高輪・承教寺鐘



























本堂向拝は連三つ斗と三面の彫刻が施されています。
港区高輪・承教寺本堂向拝














左側「虎・竹」
港区高輪・承教寺向拝左彫刻
















中央「龍」
港区高輪・承教寺本堂向拝中彫刻
















右「虎・梅」
港区高輪・承教寺本堂向拝右彫刻
















左木鼻「獏・唐獅子」、持ち送り「菊・尾長鳥」
港区高輪・承教寺本堂左木鼻

















右木鼻
港区高輪・承教寺本堂右木鼻
















本堂の左前、南無日蓮大菩薩碑等の石塔群と共に、本尊「釈迦如来像」を描いた江戸中期の絵師・英一蝶墓(都文化財)。
俳諧 書等多彩な活躍で多くの作品を遺している、辞世の歌「まぎらはず 浮世の業の色どりも 有とて月の薄墨の空」
港区高輪・承教寺本堂前の英一蝶墓

















又、ここには明治初期~37年(1904)立正大学の前身「大壇林」が置かれ、右に頌徳碑、大壇林跡碑があります。
港区高輪・承教寺本堂右前石碑
















本堂からは火灯窓を配した渡り廊下で、3段に続く入母屋造りの屋根が美しい客殿へ。
港区高輪・承教寺庫裏
中庭南よりに松を配した境内。
港区高輪・承教寺境内景色
















承教寺、黄梅院と時を経て、現在、高輪警察署斜向かいの広場に旧地名を偲び植樹された榎が大きく成長していました。榎から道を挟んだ東角(向かい)は、旧地名の高輪消防署二本榎出張所となっています。
港区高輪・公園内の榎

















榎は町の方々のシンボルにもなっています。
榎港区高輪・旧地名に因む






































港区高輪・高輪神社

品川駅前の高山稲荷神社を参拝後、第一京浜(R15)を北上した高輪2丁目交差点にやってきました。
第一京浜(R15)高輪2丁目交差点
















高輪海岸線が広がっていた一帯は、平成7年(1995)の遺蹟発掘調査で、江戸後期に石積みされた3段の石垣が確認されました。交差点角に、相模湾岸~伊豆半島周辺の安山岩を使用した当時の高輪海岸の石垣が展示されています。 
港区高輪・高輪2丁目交差点角江戸期の石垣
















高輪大木戸を通り過ぎる大名行列、石積の海岸沿いを描いた江戸後期(文久2年1862)刊行「東海道高輪風景」。
風景東海道高輪












描かれている大木戸跡は、交差点の北約800m先ですので、ここは上図の海岸線が左に大きく湾曲した先辺りの場所と思われます。
交差点から「桂坂」を少し上った所です、坂下に「高輪風景」の海が広がっていたとはとても信じられません。
高輪2丁目交差点から西側の桂坂
















戦国期、丘陵地だった一帯は高縄原(縄手道)と呼ばれていました。
旧東海道(R15)沿いに鎮座する高輪神社(高輪2-14-18)は、明應年間(1492~501)稲荷神社として創建され、高縄原一帯の総鎮守として篤く信仰されてきた古社。
明治5年(1872)村社に列し、同10年(1877)鵜来森(下高輪町)の鵜来森八幡(祭神・誉田別命)を合祀、昭和4年(1929)現社名に改称されました。
祭神「宇迦御魂命」、相殿「誉田別命(応神天皇) 猿田彦神」を安置。
港区高輪・高輪神社社頭
















高台にある境内への上り口に寛文7年(1667)造営「明神鳥居」。
柱に「奉建立華表太子講江戸石方惣中」と刻まれていることから、江戸期、職人達の間で盛んだった太子講の石方(石工)達の奉納と思われます。
港区高輪・高輪神社鳥居

















左に手水舎。
港区高輪・高輪神社手水舎
















足元に涼しげなアジアンタムが自生する文政5年(1823)造営「手水鉢」。
港区高輪・高輪神社・手水鉢
















弘化2年(1845)の大火で、社殿 社宝 古文書等は尽く灰塵と帰しましたが、幸いにも鳥居 狛犬 石門等は難を逃れました。
正面の拝殿前に、京橋大工講中が宝永6年(1709)奉納した宝珠・角の「狛犬」。
港区高輪・高輪神社家電前狛犬吽港区高輪・高輪神社・拝殿前狛犬阿
阿吽では立ち上がった尾の形や太さが微妙に違っています、大火の黒ずみや、風化による欠損で顔がはっきりしませんが、体躯はやや社殿側に傾いているのが分かります。
港区高輪・高輪神社・拝殿前吽バック港区高輪・高輪神社阿バック
正面(東)より。
港区高輪・高輪神社拝殿前吽港区高輪・高輪神社拝殿前阿

昭和55年(1980)造営の権現造り社殿(コンクリート製)、拝殿は入母屋造り。
港区高輪・高輪神社拝殿
















扉や神灯に「三つ巴紋」、神紋「結び付き抱き稲紋」入り提灯が置かれた拝殿。
港区高輪・高輪神社拝殿向拝
















拝殿内左右に獅子頭。
港区高輪・高輪神社拝殿内の左獅子頭」港区高輪・高輪神社拝殿内の獅子頭右
拝殿右に社務所、前に御神木「イチョウ」。
港区高輪・高輪神社御神木

















太子堂は「同所旭曜山常照寺といへる天台宗の寺尓阿り聖徳太子の像ハ十六歳の尊容申して自作里多ふる登といふ」、「明暦年間越後守光長卿の陪臣川木八兵衛某故ありき此所尓安置し多てまつるとあり」とあり、庚申堂は「同じ境内尓あ里本尊青面金剛の木像なり摂州四天王寺の住侶民部郷僧都豪範の作といふ」と記されている。
太子堂 稲荷社 庚申堂(青面金剛)三社が並んで描かれた江戸名所図会「太子堂 稲荷社 庚申堂」。 
江戸名所図会「太子堂稲荷社庚申堂」






























左奥(西)に、明暦年間(1655~58)聖徳太子自作と伝わる16歳時の太子像を奉斎したと伝わる境内社「太子宮」。
庚申堂は、猿田彦神社に改称され明治初期に合祀されている。
港区高輪・高輪神社境内社太子堂石門
















扁額「太子宮」。
港区高輪・高輪神社太子堂扁額

















境内左に天水桶、灯籠(天保12)、御大典記念碑(大正4)等の石造群が祀られていますが、中でも奉納者・重量が刻まれた力石は、区内で最重量とされ、区文化財に指定されています。
港区高輪・高輪神社太子堂前の石造群


















玉・子取りの大正15年(1926)建立「狛犬」。
港区高輪・高輪神社境内社太子堂前の狛犬吽港区高輪・高輪神社境内社太子堂狛犬阿
親を見つめる子犬の表情が愛おしい。
港区高輪・高輪神社境内社太子堂阿形の子犬















やや小型ですが、彫は見事です。
港区高輪・高輪神社太子堂前・吽バック港区高輪・高輪神社境内社太子堂前の阿バック
阿形(右)は鼻先と前足が欠損、肩から流れた鬣の巻毛、尻から大腿部辺りの違いも分かります。
港区高輪・高輪神社太子堂狛犬横吽港区高輪・高輪神社太子堂狛犬阿横
入口の石門は、弘化2年の火災で鳥居・狛犬と共に火災の難を逃れています。 
門柱の境内側正面に「安政四丁巳年十一月奉修慘覆之御府内石工拾三組總若者中」、左面「文政十丁㐪年七月」と刻まれており、この石塀が文政11年(1828)御府内石工13組総若者中により奉納され、安政4年(1857)修復されたことが分かります。
港区高輪・高輪神社境内社太子堂石門門柱





























左右の石壁には江戸期の彫刻家による見事なレリーフが施されています。
左側:虎退治。
港区高輪・高輪神社太子堂石門内側の左彫刻


















右側:竜との格闘。
港区高輪・高輪神社太子堂石門内側の右彫刻



















社殿の裏側(西)に人磨大明神、右の貞亨3年(1686)造立「6臂合掌青面金剛」は、区内最古で区文化財に指定されています。
港区高輪・高輪神社・青面金剛と人磨大明神



















南側に高輪西町等6ケ町の氏子中奉納の石橋や石碑群、その左側に南参道口の石段があります。
港区高輪・高輪神社境内の石塔群
















南参道口(社頭(東参道口)の約20m手前を左折した坂途中)。
港区高輪・高輪神社南参道
















高輪神社御朱印。
港区高輪・高輪神社御朱印















桂坂を上り、旧地名(二本榎)の発祥にもなった承教寺へ向かいます。






港区高輪・高山稲荷神社

港区高輪の寺社巡りをします。
品川駅・高輪口から数分南下、第一京浜(R15号)沿いに鎮座する高山稲荷神社(高輪4-1-23)を参拝しました。
約500年程前の創建と伝わり、京都伏見稲荷大社の御分霊、正一位福聚稲荷大明神の御分霊を祭祀、旧高輪南町 下高輪町の鎮守として崇敬されてきた古社。

今も一帯は坂が多いですが、往時は小高い丘陵地帯で、毛利網元上屋敷(六本木ヒルズ内)の東北の丘上に祀られていたことから高山稲荷と称されたと云います。
「薩州矦 御藩の南尓阿り」と記され、小高い丘上に鎮座する江戸名所図会「高山稲荷社」。
江戸名所図会「高山稲荷社」






























幕末期、上屋敷は長州征伐で没収となり、明治5年(1872)当地(旧久留米藩邸)に毛利元道公爵邸(常盤邸 *品川プリンスH)を構える際、広大な敷地の寄進を受けて現在地に遷座。
当時、品川駅東側は海岸線が広がり、当社は遥か房総方面から行き来する舟の目印(灯台)にもなっていました。翌6年、明治天皇は御行啓の折、眺望が素晴らしい境内で御休息・御野立されています。
祭神「宇迦之御魂神」を安置。

当時、参道口は「ウイング高輪」辺りから南に石段が向かっていましたが、昭和初期の国道拡張工事で広大だった境内も削られ、参道も旧東海道沿い(東)に移りました。
扁額「高山稲荷神社」を掲げた明神鳥居。
港区高輪・高山稲荷神社社頭
















鋭い眼光を放つ玉・子取りの慶應元年(1865)建立「狛犬」、西久保 石工・金治郎と刻まれている。
港区高輪・高山稲荷神社吽狛犬港区高輪・高山稲荷神社阿狛犬
阿形に比べると、吽形(左)の尾が若干アシンメトリーです。
港区高輪・高山稲荷神社吽形バック港区高輪・高山稲荷神社阿形バック
左に手水舎。
港区高輪・高山稲荷神社手水舎
















手水舎の木鼻「牡丹」。
港区高輪・高山稲荷神社手水舎木鼻の牡丹
















総代(第一區八番組~第六區六番組)が昭和6年(1931)奉納した龍口の「手水鉢」、正面と側面には様々な形の纏が刻まれています。
港区高輪・高山稲荷神社手水舎・手水鉢


















傍らに縁結びの神「おしゃもじさま」(区有形民俗文化財)。
名称由来は不明ですが、往時、高輪台地上に鎮座していた石神社(釈神社)の石燈籠(切支丹灯籠)とされ、当社に合祀されたものとされます。
江戸名所図会によれば、「同所高輪南町鹿児島久畄米両矦の間の小路を入って西の方二丁斗尓あ里 此地を石神横町と字連るハ此社ある由ゑな里」とある。 依って、石神横町(しゃくじんよこちょう)を里俗で「おしゃもじ横丁」と云ったことから、この名称になったとも考えられます。
又、高輪海岸で処刑された外国人宣教師の供養の為、あるいは海中より出土したとも云われますが、切支丹の隠れ信仰を物語る貴重な資料とされています。
港区高輪・高山稲荷神社・おしゃもじさま
















権現造りの社殿は昭和6年(1931)造営、境内三方(南・西・北)を高層ビル群に囲われている為、社殿全体を拝見することは出来ません。
入母屋造りの拝殿、石燈籠や天水桶も昭和6年奉納です。
港区高輪・高山稲荷神社拝殿
















美しい緑青に覆われた銅葺屋根に神紋「三つ巴紋」を配した鬼瓦、躍動感あふれる見事な彫刻が施されています。
港区高輪・高山稲荷神社拝殿彫刻




























懸魚「松・鳥」
港区高輪・高山稲荷神社拝殿懸魚













向拝上部に「雲」、「玉を持つ龍」
港区高輪・高山稲荷神社拝殿向拝彫刻















左木鼻「唐獅子」、持ち送り「波・亀(降)」
港区高輪・高山稲荷神社拝殿左木鼻














右木鼻「唐獅子」、持ち送り「波・亀(昇)」
港区高輪・高山稲荷神社拝殿右木鼻














扁額
港区高輪・高山稲荷神社拝殿扁額














擬宝珠を取り付けた高欄、神紋入りの賽銭箱。
港区高輪・高山稲荷神社拝殿賽銭箱
















拝殿前左に、旧石扁額と鳥居柱。
港区高輪・高山稲荷神社拝殿前・旧石扁額と鳥居柱
















拝殿左小壁に、龍の縁取りで小さな狛犬が支える帝國在郷軍人會・芝區第四分會奉納の扁額
港区高輪・高山稲荷神社拝殿左壁の扁額












  


社殿右(北)に「奉納御寶前」と刻まれ、延享2年(1745)深川遍渡舟仲間中が奉納した「手水鉢」。
港区高輪・高山稲荷神社社殿右の手水鉢
















本殿左(南)奥は神輿庫でしょうか、前に小型の狛犬がいます。
港区高輪・高山稲荷神社社殿左の神輿庫
















木戸から先へは入れませんが、左の常夜燈と刻まれた石柱の陰に宝珠を乗せた阿形、右に角を持つ吽形。
おそらく、社殿右の手水鉢と同年代頃の建立と思われます。
港区高輪・高山稲荷神社神輿庫前の狛犬左港区高輪・高山稲荷神社神輿庫前の狛犬右
入口石段に擬宝珠を付けた玉垣親柱。
港区高輪・高山稲荷神社境内から石段
















品川駅前から西に緩やかに上る柘榴(ざくろ)坂。 往時、高山神社は坂を上った左側(南)の小高い山上に祀られていました。
品川駅前・柘榴坂
















次は高輪神社へ向かいます。





残り生地を利用して、黒を生かした素敵なブラウス

前回作ったチュニック(コットン・オーガンジー)の残り生地を利用したブラウスです。
出来ればオーガンジーを打ち合い(中央寄せ)近くに使用したかったのですが、残り生地でこれだけ大きな花柄の柄合わせはどうしても無理、結局脇側に別布を使用しました。
黄色×黒のブラウス

着丈55㎝、
オーガンジーの袖口に共布カフス(1.5㎝)、
釦も黒で引き締めて。




















黒・白パンツやガウチョでも合いますが、以前作った長めのタックスカート(ポリ)を合わせてみました。
黒チュニックの残り生地とオーガンジーを組み合わせた小袋も中身が見えて重宝します。
今回、オーガンジーは横地(縦縞)で使用していますので、前回(黒のチュニック)、同じ柄のチュニックとはちょっと雰囲気違うと思います。
自分で工夫して好きなように作れるハンドメイド、世界で一つだけのMYブラウスです。
ブラウスとスカートポシェット























涼やかに個性的に着こなす夏の黒・チュニック

真夏の黒って一見暑苦しそうなイメージですが、深みのある漆黒とは違う黒のチュニックを作りました。
肌につかないサラッ感のある生地を使用、異素材を部分的に利かすことで、とてもオシャレで個性的に見えます。
以前、コットンチュニックにも使用した生地で、清涼感を感じさせるようにしてみました。
黒チュニック

生  地
ポリエステル 縦縞(1.5㎝)模様。


デザイン
着丈69㎝、胸元と6分袖の袖山中心(5cm巾)に黒のオーガンジー、襟周りは共のバイヤス始末、後ろ開き(9.5㎝)ボタン留め。


生地が縦縞ですので、オーガンジーは縦地(横縞)にしましたが、横地(縦縞)に裁つと又、雰囲気が変わりそう。



















新宿区筑土八幡町・筑土八幡神社

筑土八幡神社(筑土八幡町2-1)は、飯田橋駅東口から徒歩6分程の大久保通り沿いに鎮座。
嵯峨天皇の代(809~23)、牛込の里に篤く八幡神を信仰する翁がいました。ある時、夢で新霊のお告げを受け、身を清めようと井戸に行くと、松の上にたなびく雲間から現れた白鳩が松の梢に留まりました。翁はこの現象は神霊と知り、注連縄を結い松を祀ったのが起源とされます。
後、当地を訪れた伝教大師(最澄)が、自ら刻んだ「阿弥陀如来像」を祠に安置、その時、筑紫の字佐の宮土を求め礎としたことから筑土八幡神社と名付けられました。 
文明期(1469~87)、社壇を修飾した領主上杉朝興が、この地の産土神とし、江戸鎮護の神と仰いだと伝わります。

厄除 家内安全 交通安全 商売繁盛 出世開運などに御霊験あらたかで、揚場町 岩戸町 神楽河岸 津久戸町等界隈12町内の鎮守。
南向きの社頭に社号標「筑土八幡神社」、「田村虎蔵先生顕彰碑」、石段踊り場に冠木門があります。
新宿区・筑土八幡神社社頭
















次の踊り場に、扁額「筑土八幡神社」を掲げた享保11年(1726)造立「鳥居」(区有形文化財)。
寺社奉行を兼任した常陸下館藩主・黒田直邦が奉納した区内最古の明神鳥居です。
新宿区・筑土八幡神社鳥居
















当社の南100m界隈は、明治期、花街として最盛期の賑いを呈した神楽坂です。 
当時を偲ばせる「神楽坂 新藤村」と刻まれた石段沿いの玉垣。
新宿区・筑土八幡神社玉垣
















元和2年(1616)江戸城田安門付近の田安明神が隣に移転し、津久土明神社となりましたが、戦災で(1945)焼失後、九段北に移転して筑土神社として鎮座しています。
津久戸明神社(左側)と筑土八幡宮を描いた江戸名所図会「筑土八幡宮 同明神社」
江戸名所図会「筑土八幡宮」左江戸名所図会「筑土八幡宮」右
石段を上りきると、参道は正面の拝殿へと伸びながら、手水舎、境内社、神楽殿へ其々分岐。
新宿区・筑土八幡神社境内
















右手に水手舎、庚申塔、百度石(明治15年奉納)を前に御神木「イチョウ」、宮比神社 神楽殿。
新宿区・筑土八幡神社手水舎と御神木
















手水鉢、奥に御供水(井戸)。
新宿区・筑土八幡神社手水鉢と井戸(御供水)


















太陽と月、左に桃の木、枝を手にする2猿(牡・牝)の寛文4年(1664)造立「舟形庚申塔」(区有形文化財)。
新宿区・筑土八幡神社庚申塔









































享和2年(1802)造立「明神鳥居」が立つ境内社「宮比神社」、祭神・宮比神(天鈿女命)を安置。 
古くは下宮比町(新宿区北東部、新宿区・千代田区・文京区の区境)の旗本屋敷の邸内社として祀られていましたが、明治40年(1907)境内に遷座されました。
新宿区・筑土八幡神社境内社
















金太郎・はなさかじじい・浦島太郎等の童謡や小学唱歌で知られる作曲家田村虎蔵は、かつては社の西側に居を構えていました。
参道左に、「♪まさかりかついだ金太郎♪」の音符が刻まれた「田村虎蔵顕彰碑」。
新宿区・筑土八幡神社石碑
















神輿庫、伊勢神宮御料酒「白鷹」
新宿区・筑土八幡神社神輿殿
















左)鉄製の飾り網等、重厚で堅牢な造りの慶応2年(1866)製作「神輿(白木)」。
右)延宝6年(1678)製作、戦前~昭和48年まで渡御されていました。
新宿区・筑土八幡神社神輿左新宿区・筑土八幡神社神輿右
台石に「津久戸」と刻まれ文化7年(1810)建立「狛犬」。
新宿区・筑土八幡神社狛犬吽新宿区・筑土八幡神社狛犬阿
吽形(左)は角、阿形は宝珠を載せています。この写真では分かりづらいのですが、尾は左右から上に伸びている部分の太さや形が違います。
新宿区・筑土八幡神社狛犬吽バック新宿区・筑土八幡神社狛犬阿バック
臀部の盛り上がりが違います。
新宿区・筑土八幡神社狛犬吽横新宿区・筑土八幡神社狛犬阿横
境内地は約2,200㎡、社殿は戦災で灰燼に化しましたが、昭和38年(1963)再建されました。
コンクリート造り社殿は権現造り、入母屋造りの拝殿、前に文政2年(1819)鋳造「天水桶」1対が置かれています。
新宿区・筑土八幡神社拝殿
















扁額。
新宿区・筑土八幡神社拝殿扁額
















拝殿内。
新宿区・筑土八幡神社拝殿内
















祭神「応神天皇 神功皇后 仲哀天皇」を安置する流造りの本殿、左側に駐車場があります。
新宿区・筑土八幡神社本殿
















社殿左側に西参道。 
新宿区・筑土八幡神社西参道
















御朱印。
新宿区・筑土八幡神社御朱印
















西参道を下り、丁字路正面に作曲家田村虎蔵旧居跡(区史跡)。
「作曲家田村虎蔵は、明治39年から生涯を閉じるまでの37年間、この地で暮らし作曲活動を行った。明治期の言文一致の唱歌活動を石原和三郎・巌谷小波・芦田恵之助・田辺友三郎らと共に展開し、普及に尽力しました。旧居は太平洋戦争時の戦災で焼失しています。」(説明板より一部抜粋)
新宿区・田村虎蔵旧居跡説明板















丁字路左(南)を下ると大久保通りへ至りますが、この南北に走る坂道は御殿坂です。
江戸期、当社西側は御殿山と呼ばれ、坂名は3代家光公が鷹狩りの際の仮御殿が設けられたことに因みます。
新宿区筑土八幡町・御殿坂























山梨県東八代郡豊富村(現・中央市)のマンホール

山梨県東八代郡豊富村地図豊富村は、平成18年(2006)2/20に中巨摩郡玉穂町 〃田富町と新設合併して中央市となりました。
昭和30~50年代、繭生産が盛んで、国内最大生産量を誇っていました。 詳しくは郷土資料館・岡野氏によるこちら(事例報告)をご一読下さい。



山梨県東八代郡豊富村・汚水


中央市浅利、とよとみクリーンセンター内で撮影。






汚水用には中心に「村章」、
放射状に「桑の葉とマユ」8個、「シルクの里 とよとみ」文字がデザインされています。















続きを読む

山梨県西八代郡市川三郷町のマンホール

平成17年(2005)10/1、三珠町 市川大門町 六郷町が合併して市川三郷町が発足しました。
山梨県西八代郡市川三郷町・耐震性貯水槽


市川大門、三郷町立図書館敷地内で撮影。







「町章」、「梯子車」のカラー耐震性貯水槽(100t)。













山梨県笛吹市のマンホール

山梨県笛吹市・制水弁


市川大門、県道3号で撮影。






「笛」文字入りのカラー排泥弁。









山梨県西八代郡三珠町(現・同郡市川三郷町)のマンホール

江戸歌舞伎を代表する初代市川団十郎所縁の地として知られる三珠町は、平成17年(2005)10/1に市川大門町 六郷町と合併して市川三郷町になりました。 
山梨県西八代郡三珠町(市川三郷町)・汚水(展示)


市川三郷町役場に展示。





中心に市川家の裏家紋「牡丹」、
上部に町の花「フジ」の葉、「歌舞伎の里 三珠町」がデザインされた汚水用。







山梨県西八代郡三珠町(市川三郷町)・汚水


町役場前で撮影。






「四ツ割菱紋」の受枠付汚水用。













山梨県西八代郡市川大門町(現・同郡市川三郷町)のマンホール

平成17年(2005)10/1、三珠町 六郷町と合併して市川三郷町になりました。
平成元年(1989)から始まった神明の花火は、県最大の花火大会として知られています。
山梨県西八代郡市川大門町(市川三郷町)・汚水


市川大門、町民体育館付近で撮影。





汚水用には「芦川」に架かる「青洲橋(市川大門バイパス・R140号)」、「神明の花火」、市川手漉き和紙が張られた「障子戸」がデザインされています。
※初回の花火大会は芦川河川敷で、現在は富士川大橋(富士川)と三都橋(笛吹川)との間で打ち上げられています。





山梨県西八代郡市川大門町(市川三郷町)・汚水枡1


市川大門、県立市川高等学校付近で撮影。






「町章」入り汚水枡。







山梨県西八代郡市川大門町(市川三郷町)・消火栓


市川大門、県道3号で撮影。







「町章」入り消火栓。








山梨県西八代郡市川大門町(市川三郷町)・防火貯水槽











「町章」、「市川大門町」、「梯子車」デザインの防火貯水槽。







山梨県西八代郡市川大門町(市川三郷町)・制水弁








「町章」入り制水弁。













山梨県南巨摩郡富士川町のマンホール

平成22年(2010)3/8、南巨摩郡鰍沢町 〃増穂町の合併で富士川町が発足しました。
山梨県南巨摩郡富士川町・制水弁


天神中條で撮影。





「町章」入りの制水弁。








山梨県南巨摩郡富士川町・空気弁







「町章」入り空気弁。







止水栓山梨県南巨摩郡富士川町・止水栓








「町章」入り止水栓。












山梨県南巨摩郡増穂町(現・同郡富士川町)のマンホール

平成22年(2010)3/8、増穂町と鰍沢町が合併して富士川町が発足しました。
山梨県南巨摩郡増穂町(〃富士川町)・汚水


天神中條、富士川町役場付近で撮影。





汚水用には民俗資料館として保存されている「舂米学校(明治9年(1876)築、県文化財)」、
町の木「マツ」、町の花「アヤメ」がデザインされています。







山梨県南巨摩郡増穂町(〃富士川町)・汚水H


大久保、県道413号で撮影。







凹凸が逆の汚水ハンドホール。







山梨県南巨摩郡増穂町(〃富士川町)・汚水JIS


天神中條、県道413号で撮影。







「町章」入りのJIS規格汚水用。








山梨県南巨摩郡増穂町(〃富士川町)・制水弁








「町章」入り制水弁。








山梨県南巨摩郡増穂町(〃富士川町)・量水器






「町章」入りの量水器。











山梨県南巨摩郡鰍沢町(現・同郡富士川町)のマンホール

平成22年(2010)3/8、鰍沢町 増穂町が合併して同郡富士川町が発足しました。
県唯一の日本さくら百選に選定されている大法師公園のサクラ(約2000本)は、県唯一の日本さくら百選に選定されている.。
山梨県南巨摩郡鰍沢町(〃富士川町)・汚水


鰍沢町、県道42号で撮影。






汚水用には日本三大急流の一つ「富士川」、大法師山等の「山並み」、町の花「サクラ」がデザインされています。








山梨県南巨摩郡鰍沢町(〃富士川町)・消










「町章」、「梯子車」のカラー消火栓。










山梨県西八代郡六郷町(現・同郡市川三郷町)のマンホール

西八代郡六郷町地形図平成17年(2005)10/1、六郷町は隣接の市川大門町 三珠町と対等合併、同郡市川三郷町が発足しました。
山間部の為、明治政府の埴産工業政策として、足袋や水晶加工・研磨等の技術を生かした印章等の地場産業が発展しました。





山梨県西八代郡六郷町(現・〃市川三郷町)・特定環境保全下水道


岩間、県道9号で撮影。





印鑑を模した汚水用には、上部に「特定環境保全」、
中心円に「町章・印鑑」、中央に「公共下水道事業」、下部に「六郷町」がデザインされています。








山梨県西八代郡六郷町(現・〃市川三郷町)・消









「町章」、「梯子車」の枠付カラー消火栓。









山梨県西八代郡六郷町(現・〃市川三郷町)・仕切弁










「町章」、「↑ 75」の仕切弁。












    

山梨県南巨摩郡中富町(現・南巨摩郡身延町)のマンホール

平成16年(2004)12/1、中富町は同郡身延町 西八代郡下部町と合併して身延町となりました。                    和紙の里(西嶋和紙)として知られています。
山梨県南巨摩郡中富町(〃身延町)・汚水


飯富、県道52号で撮影。






汚水用には、額アジサイの花弁型内に「紙漉きをしている職人 和紙の里」、
下部に「なかとみ」、周囲に町の花「アジサイ」がデザインされています。







山梨県南巨摩郡中富町(〃身延町)・汚水H









同デザインのハンドホール。












     
今日の日付入りカレンダー

07 | 2017/08 | 09
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -
プロフィール

pansy

Author:pansy
神奈川県在住の女性。

最新記事
カテゴリ
全記事表示リンク

全ての記事を表示する

最新コメント
月別アーカイブ
最新トラックバック
リンク
RSSリンクの表示
検索フォーム
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR