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足立区千住橋戸町・橋戸稲荷神社

橋戸稲荷神社(千住橋戸町25-1)は、京成本線・千住大橋駅南口から徒歩5分程、境内からは隅田川に架かる千住大橋が垣間見える静かな住宅地に鎮座しています。
延長4年(926)とも延徳2年(1490)の創建ともされ、昔、半農半漁の開拓民達が稲荷神を勧請、千住河原の景勝地に本殿のみを建立し祀ったと伝わるなど、千住では古い歴史をもつ神社です。
商売繁盛・家内安全・五穀豊穣に御霊験あらたかな祭神「倉稲魂命」を安置。

東向きに平成28年造立「木製鳥居(靖国鳥居)」。
足立区千住橋戸町・橋戸稲荷神社鳥居


















手水舎は唐破風切妻造りの格天井張り、火除けの懸魚「波」、小壁「波」彫刻が施されている。
「奉獻」と刻まれた手水鉢は、小揚中が従嘉永7年(1854)奉納。
足立区千住橋戸町・橋戸稲荷神社手水舎

















後方(南)に石井戸、明治17年(1884)建立「睦逎松碑」。
足立区千住・橋戸稲荷神社境内の歌碑
















参道は左の手水舎、左右奥の境内社に其々分岐、拝殿前に獅子山の神使「狐」、正面に社殿。
足立区千住橋戸町・橋戸稲荷神社境内正面

















躍動感溢れる神使「狐」は明治30年(1897)建立。 
左側:獅子山の裾に尻を上げ、顔が正面向きの子狐、頂の狐は鼻が欠損していますが、後ろ足を揚げた跳躍姿勢。
足立区千住橋土町・橋戸稲荷神社左狐
















右側:獅子山の頂の狐。 左右とも体は南向きで、目力を感じさせる彩色が施されています。
足立区千住橋戸町・橋戸稲荷神社右狐
















何の写真?・・・と思える後ろ姿、左(♂)・右(♀)です。
足立区千住橋戸町・橋戸稲荷神社左バック足立区千住橋戸町・橋戸稲荷神社狐右バック
千住は、江戸初期の寛永2年(1625)日光・奥州両街道の宿場町に指定され、隅田川の舟運で栄えました。後、文禄3年(1594)千住大橋の架橋で人馬往来が増大、街道を行き交う旅人達や河川小揚組等の信仰を集めたと云います。

拝殿は文久2年(1862)造立。 擬宝珠を載せた高欄を巡らせ、二重屋根の唐破風入母屋造り。
前には石燈籠一対、三ツ巴紋入り手桶3荷が積まれた天水桶、賽銭箱には神紋「抱き稲紋」が入れられている。
足立区千住橋戸町・橋戸稲荷神社拝殿

















上屋根の懸魚や鬼瓦や破風板に「三稲荷玉」、懸魚「二匹の狐、左狐が稲穂を銜えている」
足立区千住橋戸町・橋戸稲荷神社拝殿唐破風拝懸魚














向拝「2人の刀匠」。
足立区千住橋戸町・橋戸稲荷神社拝殿向拝














木鼻「唐獅子・獏」。 唐獅子は、内側に頭を傾けています。
足立区千住橋戸町・橋戸稲荷神社左木鼻足立区千住橋戸町・橋戸稲荷神社右木鼻
扁額「神威」。
足立区千住橋戸町・橋戸稲荷神社拝殿扁額













延徳2年(1490)築、安政6年(1859)再建の本殿(区有形文化財・建造物)は、区内唯一の土蔵造り(漆喰塗込)です。 
足立区千住橋戸町・橋戸稲荷神社本殿
















両側には神使「狐」、右側(写真手前)は子取りで、懐に親と同じく台座に座り、顔だけ左(北)向きの子狐がいます。
足立区千住橋戸町・橋戸稲荷神社本殿前の狐
















正面扉の上壁に「唐草模様」、観音開きの扉の左右内側には、江戸末期~明治期の名工・伊豆長八(入江長八)による鏝絵「夫婦白狐」が遺されています。
(※本殿は年に数回御開帳されますが、通常は拝殿左右に置かれた鏝絵レプリカで拝見出来ます)
橋戸稲荷神社本殿鏝絵




















この鏝絵は、水害に苦しんだ農民達の願いを込め、橋戸耕地の稲の豊作を祈願して描かれたものとされます。、
左右の扉上部に「三稲荷玉」が描かれ、右扉は「雄狐・稲穂」。
足立区千住橋戸町・橋戸稲荷神社本殿右扉の鏝絵



























左扉「稲穂の中で子狐を抱く雌狐、背後に後ろ向きの子狐(右側)」。 
子を見つめる母狐の慈愛に満ちた表情が、とても印象的に描かれています。

扉中央の少し手前で低い(しゃがんで)姿勢で拝見すると、夫婦狐に見つめられるように視線(玉眼)が合い、何とも不思議な感じ、名工と謳われた長八ならではの作品です。
寄木神社(北品川)本殿の鏝絵は数色使われていましたが、こちらは「白狐」で朱が口や舌に施されているだけです。
足立区千住橋戸町・橋戸稲荷神社本殿左扉の鏝絵

























錣屋根の本殿(北西から)、寄り添う様に御神木「イチョウ」。
足立区千住橋戸町・橋戸稲荷神社本殿・北西から
















樹齢などは不明ですが、幹回り・樹高も見事です。
足立区千住・橋戸稲荷神社御神木「イチョウ」





























拝殿左に創始、社殿建立、漆喰塗込本殿の鏝絵等の歴史を記した「橋土神社縁起碑」、平成2年(1990)奉祝天皇陛下御即位大典記念で建立。
足立区千住橋戸町・橋戸稲荷神社拝殿右の石碑
















本殿右(北)、木製鳥居が立つ境内社。
足立区千住・橋戸稲荷神社境内社(社殿右側)
















左(南)にも、木製鳥居を前に境内社。
足立区千住橋戸町・橋戸稲荷神社右の境内社
















宿場町として栄えた江戸期、隅田川舟運で物資が陸揚げされ、この辺りは継場として栄えました。 
社殿内に祀られている慶應3年(1867)造立「石祠」は、元は当時の継場辺りに祀られていたようです。
足立区千住橋戸町・橋戸稲荷神社の境内社の石祠














彼岸も近い、境内片隅に満開の曼珠沙華。
足立区千住・橋戸稲荷神社境内の彼岸花
















境内はイチョウが多いですが、社殿を覆うように繁る樹木群は保存樹木となっています。
足立区千住・橋戸稲荷神社南東から
























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練馬区小竹町・江古田浅間神社

江古田浅間神社(小竹町1-59-2)は西武池袋線・江古田駅北口前に鎮座、茅原浅間社とも呼ばれた富士信仰の古社です。
承応元年(931)6月茅原の地に雪が降り、雪山が富士に似ていた為、村人が登ると御神体の石を拝しました。これを富士の大神と崇め祀ったのが起源とされます。
又、昔、江古田町と小竹町による神社所有を巡り争いが起きた際、初夏に雪が降る天変地異が起こりました。
人々はこの現象に驚き、以後、両町共有の氏神様として祀るようになったと云う伝説が伝わっています。

今日は祭礼です、南向きの社頭には幟旗や提灯、参道沿いに沢山の屋台が並びます。
練馬区小竹町・江古田浅間神社社頭
















鳥居(靖国鳥居)を潜ると、境内は都保護樹林に指定されたケヤキ等の大樹に覆われ、夏日の様な日差しが遮られています。
練馬区小竹町・江古田浅間神社・富士塚鳥居
















木洩れ日で涼しい境内、参道左(西)に神楽殿、手水舎、正面に拝殿。
練馬区小竹町・江古田浅間神社境内の様子
















提灯「浅間神社」を飾った昭和29年(1954)造営「神楽殿」。
練馬区小竹町・江古田浅間神社神楽殿
















神紋、奉獻と刻まれた昭和40年(1965)造立「手水鉢」。
練馬家小竹町・江古田浅間神社手水舎
















社殿(拝殿・幣殿)は昭和27年(1952)造営。拝殿は切妻造り、幣殿後方(北)に江古田富士塚があります。
練馬区小竹町・江古田浅間神社拝殿
















往時の茅原の地に因む扁額「茅原浅間」。
練馬区小竹町・江古田浅間神社拝殿扁額














神紋「丸に棕櫚紋」の賽銭箱、御神灯が灯された拝殿内。
練馬区小竹町・江古田浅間神社拝殿と賽銭箱
















拝殿前には文政2年(1819)、「富士山」に「万」文字の嘉永元年(1848)建立「灯籠」があります。
練馬区小竹町・江古田浅間神社拝殿前の石灯籠
















社殿左(西)側に「富士山・祓」文字の「植樹碑」、左右の宝珠の形が違いますが、柱に「祓」文字を刻んだ文化4年(1807)建立「灯籠」。
練馬区小竹町・江古田浅間神社拝殿左の植樹碑
















江戸中期頃、人々の間で富士講が盛んになり、後期には “江戸八百八講、講中八万人” と云われる程、多くの講中がありました。
江古田の富士塚(国有形民俗文化財・練馬区有形民俗文化財)は高さ8m・径30m、江戸後期・天保10年(1839)頃に、小竹丸祓講(下練馬村・中新井村・中村)により建造されたと云われています。 関東大震災(大正12)で崩れましたが、講中により修復されています。

入口に「国指定有形民俗文化財 浅間神社富士塚碑」、笠に鐘を吊るした金属灯籠一対があります。
練馬区小竹町・江古田浅間神社富士塚碑
















傍らに祓講が文化9年(1812)奉納の「手水鉢」。
練馬区小竹町・江古田浅間神社富士塚入口の手水鉢















登山口(入口)に太い注連縄が掛る木製台輪鳥居。
練馬区小竹町・江古田浅間神社・富士塚鳥居
















鳥居を潜った右奥に不動明王らしき像が祀られ、その下から滝が流れ落ちています。 樹木の陰で文字がはっきりしませんが、「奉造立 大山・・・」と読めます、大山なら不動明王でも合点がいくのですが。。。
練馬区小竹町・江古田浅間神社・富士塚入口右の滝と像
















1合目石塔前に合掌する神使「猿像」。
練馬区小竹町・江古田浅間神社の富士塚の左猿像練馬区小竹町・江古田浅間神社の富士塚・右猿像
正面に石燈籠や朱の鳥居が立つ小祠が祀られ、右の石燈籠に2合目石碑、3合目から4合目と登り、右に曲がる5合目石碑に身祿尊祠碑が祀られています。
練馬区小竹町・江古田浅間神社富士塚正面の祠

















6合目の先に、茅原浅間社とも呼ばれた所以の歌碑があります。
者て毛那き このむさし能ゝ可や者ら尓 ふし者可利こ曽やま盤み盈亽れ
(果てもなき 此の武蔵野の茅原に 富士ばかりこそ山はみえけれ」
練馬区小竹町・江古田浅間神社・富士塚歌碑
























頂きには明神鳥居(木製)を前に、祭神「木花佐久夜姫命」を安置する本殿(石祠)。
練馬区小竹町・江古田浅間神社・富士塚の浅間神社本殿
















軒唐破風・流造りの本殿は、天保10年(1839)造営、紙垂を飾り神紋を染め上げた神殿幕が掛けられています。 塚共々関東大震災(大正12年)で損傷、翌年講中により補修されました。
練馬区小竹町・江古田浅間神社富士塚本殿

























往時、江戸近郊には多くの富士塚が築かれましたが、完全な形で現存するのは当社の富士塚・下谷坂本富士(台東区・小野照崎神社)・高松富士(豊島区・高松富士浅間神社)の3基です。富士塚は江古田富士とも呼ばれ、通常は門は閉じられていますが、正月 山開き(7/1) 祭礼の3回だけ登拝することが出来ます。
頂からの拝殿・幣殿。
練馬区小竹町・江古田浅間神社富士塚頂上より
















本殿前を右(東)に進んで下りますが、塚の後面(北側)はかなり急傾斜になっている様です。
東に大きく廻りこんで下ると、左に葉団扇を持ち合掌する天狗石像(左)、右に刀を振り上げた烏天狗石像(右)。
練馬区小竹町・江古田浅間神社・富士塚の下山左の鳥天狗1練馬区小竹町・江古田浅間神社の富士塚下山道右の鳥天狗
烏天狗像の向かいに井戸、木製明神鳥居を潜った先が上り・下りの分岐点で、左に下ります。
練馬区小竹町・江古田浅間神社富士塚下参道の鳥居
















境内東側に社務所、横に絵馬掛け、本社・一部~四部・二丁目・東の各町の神輿殿。
練馬区小竹町・江古田浅間神社社務所と神輿庫
















御朱印。
練馬区小竹町・江古田浅間神社御朱印























別素材を使ってシックなチュニックにリメイク。

これは数年前に作ったポリエステルチュニックです、かなり透けるので一度も袖を通さずじまい。処分するのももったいないので、別布を組み合わせたチュニックを作ってみました。 
茶(ドット柄)ポリエステルチュニック


























今回は、前後の見頃を袖に利用したリメイクです。両袖部分も他の生地を利用すれば、もう1着作れるので、殆ど無駄が出ません。
別布は縦縞(7ミリ)入り薄手生地(コットン・ポリ混紡 ダークブラウン)、前襟ぐりに左右4本タック、後ろ襟ぐり左右2本タック、開き(7㎝)はボタン止め。長め、広めの袖(63㎝)の調節はシャリーリングゴムで自在に、ワンピースにもなる着丈83㎝。
茶・ドットのチュニック





















ストールはそのまま利用します。
異素材を使ったリメイクチュニック「茶・ドット)

































JR大森駅北口~JR蒲田駅東口までブラ~り散歩。

二百十日も過ぎ、幾分秋めいてきた日和、爽やかな風を感じながらJR大森駅からJR蒲田駅まで歩いてみはました。
(大森北) 
北口の先で賑わう駅前通りを右折、道なりに南へ直進して五差路を横断しますが、交差点の西側には酉の市で賑わう古社「鳳神社」が鎮座しています。
JR大森駅北口の前














八幡通りバス停付近。
大田区大森北・八幡通りの八幡通りバス停付近














環七通り(都318)沢田交差点です。
大田区大森北・環七通り沢田交差点の手前














更に南下すると、住宅密集地の左右には自転車が通れる程の細道が一直線に伸びています。 地図を見ると、右側ほぼはJRの線路まで真直ぐに続いていますが、かつての農道の名残と思われる感じの道です。
大森西・沢田交差点 ̄富士見橋交差点間の左細道














道を挟んだ左側(東)にも同じ道。
大森西・沢田交差点~富士見橋交差点間の左細道














数分先の右の細道。
大森西・沢田交差点 ̄富士見橋交差点~富士見橋間の左細道1














(大森西)
内川に架かる富士見橋(コンクリート製)です。 架橋年代は分かりませんが、欄干下部の扇型の空間が何ともレトロな感じです。
大森西・富士見橋手前から大森地域庁舎交差点方面















内川は延長1.55Kで、かつては北馬込付近に源を発した小川でした。現在は中央~大森西を流れながら京浜運河、東京湾に注いでいます。
大田区大森西・富士見橋からの内川














渡り詰め親柱の「ふじみはし」。
大森西・富士見橋の渡り詰め













スーパーや住宅が入りまじる大通りに入ると、右(西)側が道路拡張工事で広くな、電柱も埋設されたスッキリした町並みになります。道幅拡張部分には等間隔に共同溝「Bbox」が敷かれていました。
大田区大森西・歩道の共同講














やがて左側舗道に「三輪神社」の幟が、折角ですからちょっと参拝して行きましょう。
右の東邦大看護学校の交差点で左折、いくつかの幟が立つ通りを約250m東下すると、旧西大森村の鎮守「谷戸三輪神社」(大森西5-18-5)。
大田区大森西5丁目・三輪神社














往時、谷戸部落の西外れの小祠に氏神が祀られていましたが、江戸初期に洪水等の災害に見舞われた為、里人達が大黒さま(大国主命)を勧請、第六天社としたのが起源です。
社殿は入母屋唐破風、珍しい北向きに造営されています。
大田区大森・谷戸三輪神社社殿














狛犬(建立年不明)・扁額。
大田区大森西・谷戸三輪神社狛犬大田区大森西・谷戸三輪神社扁額
朱の鳥居が建ち並ぶ社殿左奥に、扁額「正一位稲荷大明神」を掲げた江戸末期創建と伝わる境内社「稲荷神社」。
大田区大森西・谷戸三輪神社境内社














通りに戻る右手に大森三輪公園。 ごく普通の公園なんですが、神社へ向かう時、園内に目ざとく見つけたものがあります。
大田区立大森三輪公園














西側の大森西図書館との境南西角に東海道常夜燈(区文化財)があります。 
説明板によれば「江戸後期に大森村の近郷、江戸、川崎の富士講の人々が、東海道(R15号、大森中)沿い(江戸からは右側)に建立した常夜燈です。大正期~昭和初期の第一京浜拡張工事で転々とし、昭和60年代に火袋等の修復を経て当所に移された」と記されています。
以前、旧東海道を完歩しましたが、説明板が設置されていれば気付いた筈ですが、左側を歩いたのかもしれません。
それにしても・・・知らない町を歩きながら思いがけない発見や出会いこそ、散歩の楽しみなのかもしれません。
大田区大森西・大森公園内の東海道常夜燈














台石には雪を頂く富士山、頂の左右に日、三猿が中央の「丸に三つ引紋」に寄り添っています。一見すると、三猿から庚申塔かと思われますが、月の陽などが入っていません。
大田区大森西・大森公園の東海道常夜燈の台石(三猿・富士山)














通りに戻ると、東邦大キャンパス、東邦大病院が続く東邦大通り。
大田区大森・東邦医大通り














少し先の左側に梅屋敷商店街のアーチが見えます。
梅屋敷商店街入口アーチ














以前、安くて美味しそうな御惣菜等がTVで紹介されたことがありますので、ちょっと歩いてみました。
シャッターが閉まった店もありますが、野菜が安くお手頃価格の洋服店も数軒、中華料理店やスーパーも何軒かあります。
更に直進すれば京急梅屋敷駅に突き当ります。
梅屋敷商店街中程
(蒲田)
500m程南下すると呑川。 川の名は呑める川・呑みこんだ川等に因むそうで、“サザエさん”で有名な桜新町に源を発し、大田区糀谷を流れながら東京湾に合流しています。
又、江戸期から明治期にかけ、この一帯は沢山のアヤメが咲く場所だったことから、菖蒲橋の欄干には咲き誇る「アヤメ」のレリーフが付けられています。
大田区・呑川の菖蒲橋














賑やかな蒲田東口商店街にやってきました。
10数年前の事ですが、蒲。に住んでいた友人と、時々コーヒー店でおしゃべりした思い出の町です。
蒲田駅前、蒲田東口商店街通り














JR蒲田駅東口。
明るかった空も怪しき雲模様、約1時間20分のウオーキングでした。 
都会の景色はどこも変わりませんが、今日は東海道常夜燈に出会えて大満足の散歩でした。
JR蒲田駅東口





















大田区羽田・穴守稲荷神社

旧村社・穴森稲荷神社(羽田5-2-7)は京急・穴森稲荷駅から徒歩数分に鎮座、羽田七福稲荷巡りの一社です。
穴森稲荷駅前に「コンちゃん像」(狐像)、通路に3基のアーチ形門、鳥居が並びます。
京急・穴守稲荷駅のコンちゃん















駅入口に、扁額「穴守稲荷神社」を掲げた明治39年(1906)造立「明神鳥居」。
京急・穴守稲荷駅前・鳥居
















起源は、江戸後期の文化元年(1804)千潟地を新田開発の際、荒波で沿岸堤防に生じた穴による海水で、周辺村々は甚大な被害を被り、堤防上に稲荷明神を勧請し祠を建立したのが始まり。以後、海は鎮まり御加護による大きな実りをもたらしたと云います。
「穴守」とは、「堤防に開いた穴の害から人々を守る」という御神徳に因み、江戸期には「穴を守る(性病から守る)」に通じるとされ、遊女達の信仰を集めました。
又、「ねがいごと 必ずかなう穴森の いなりの神よ いかに尊き」の御神徳から、明治 大正 昭和期を通じ最も降昌を極め、崇敬者は国内外に及びました。
明治19年(1886)穴守稲荷社から現社名に改称。 特に明治中期以降、周辺では潮干狩り 温泉旅館 芸者置屋等で賑い、門前町として大いに栄えたと云います。

第二次世界大戦直後(昭20年1945)の9/21、米軍の軍事基地拡張で当社と住民共々が強制退去(48時間以内)となる。 翌月、崇敬者達の寄進した現在地(700坪)に仮社殿を造営し遷座、羽田の守り神として崇敬されています。

境内へは西参道・南参道・東参道3ヵ所ありますが、駅に近い西参道が表参道になります。
入口に社号標「穴守稲荷神社」、扁額「穴森神社」を掲げた一ノ鳥居(台輪鳥居)。
大田区羽田・穴守稲荷神社西参道口
















途中に川口穴守稲荷講が奉納した屋根付門、右からの南参道と合流する手前に二ノ鳥居(台輪鳥居)、正面に手水舎、左に三ノ鳥居、右手が東鳥居です。
大田区羽田・穴守稲荷神社表参道途中の二の鳥居
















手水舎前で右からの南参道と合流、参道が直角に左(北)へ折れる所に三ノ鳥居。 手水舎後方に神輿殿 納札所、必勝稲荷社が祀られています。
大田区羽田・穴守稲荷神社三ノ鳥居
















手水舎の天井に「龍」(写真)、木鼻「唐獅子・獏」彫刻。
大田区羽田・穴守稲荷神社手水舎天井の龍














社殿前に鋭い視線を向ける明治39年(1906)建立の神使「狐」。
吽形は玉取り、阿形の子狐は玉と親の尾に前足をかけた玉・子取り。
大田区羽田・穴森稲荷神社吽狐大田区羽田・穴森稲荷神社阿狐
後ろから。
穴守稲荷神社・吽形バック穴守稲荷神社・阿形バック
権現造り社殿(鉄骨コンクリート)は昭和39年(1964)造営。 入母屋造りの拝殿前に宝珠を取り囲む線香立てのガラス張り燈明台が置かれています。  右に祓所、社殿左が社務所です。
大田区羽田・穴守稲荷神社拝殿
















神紋入り鬼瓦、破不板に「唐草模様」を取り付け、懸魚「宝珠・猪目」、扁額「穴守稲荷神社」。
大田区羽田・穴森稲荷神社拝殿扁額



























祭神「豊受姫命(倉稲魂命)」を安置する本殿は流造り。
大田区羽田・穴守稲荷神社本殿
















境内東側、納札所左に境内社・必勝稲荷社。
大田区羽田・穴守稲荷神社・必勝稲荷社
















社殿左(東)に、扁額「穴守稲荷神社」を掲げた奥之宮への千本鳥居が連り、右には境内社3社(開運稲荷社・出世稲荷社・稲荷大明神)の其々の鳥居が並びます。
穴守稲荷神社境内社の奉納鳥居
















手前に鳥居9基が連なる開運稲荷社(流造り)。
穴守稲荷神社・開運稲荷社

















11基の鳥居が連なる出世稲荷社。懸魚「鶴二羽」、向拝「龍」、木鼻「唐獅子・獏」の流造り社殿。
大田区羽田・穴守稲荷神社・出世稲荷社

















一番奥に扁額「栄繁 稲荷大明神」を掲げた鳥居の「稲荷大明神」。
流造り社殿に懸魚「鶴」、向拝「龍」、脇障子「牡丹・唐獅子(昇・降)」彫刻を施し、横に絵馬掛けがあります。
穴守稲荷神社・境内社稲荷大明神

















左側、奥之宮の参道に立つ千本鳥居(40基)。
大田区羽田・穴守稲荷神社奥社の奉納鳥居
















懸魚に扁額「奥之宮」、社殿左右と後方が築山に覆われ、“お穴さま”と呼ばれる奥之宮。
大田区羽田・穴守稲荷神社奥の宮
















左側の奉納ミニ鳥居前に神砂(招福砂)と砂を入れる紙袋が置かれています。
招福砂(神砂)とは、家内安全 商売繁盛 心の願いを叶える神砂として称えられ、これを頂いて家運繁栄・清めの砂として撒かれると、人の心を和め、祓いて導きのある神徳を授かるとの事。
*玄関先(家内安全の招福)、*床下(病気平癒)、*敷地中心(新築や増改築等)、*災・厄等(その方向へ)。

神砂の由来「老人が漁で釣った魚を網に入れたが、内には砂だけで、翌・翌々日の大漁の時も篭の中を見ると湿った砂だけでした。村人達は狐の仕業として、稲荷社で狐1匹捕えるが、老人は狐を許し放したという。以後、漁に出ると必ず大漁で、篭の中には多くの魚と少しの砂が残りました。持ち帰った砂を庭に撒くと、客が多く訪れ富を得た」と伝わる。
穴守稲荷社・奥之宮左側の奉納鳥居・お砂
















奥には奉納された大小の白狐。
奥の宮右の奉納狐
















右(東)に築山稲荷社、左にも小祠が祀られています。
大田区羽田・穴守稲荷神社奥の宮右の築山稲荷社

















本殿後方から築山へ登拝出来、上り口左に福徳稲荷社。
穴守稲荷神社奥之宮裏手の福徳稲荷社
















登山道は幸稲荷社の前で東へ折れ、頂までの道筋には末広稲荷社や多くの奉納石碑が点在しています。
大田区羽田・穴守稲荷神社築山の境内社
















頂には石碑や石燈籠、木製鳥居が立つ御嶽神社。
大田区羽田・穴守稲荷神社・御嶽神社
















扁額「穴守稲荷神社」を掲げた南鳥居(台輪鳥居)。
大田区羽田・穴守稲荷神社南参道(表参道)
















鬱蒼とした樹木に覆われた左奥に「狐塚社」、右側に「飛龍明神碑」が祀られている。
大田区羽田・穴守稲荷神社境内社狐塚社
















左に昭和43年(1868)造営「神楽殿」。
大田区羽田・穴守稲荷神社神楽殿















向かい(東)には「月」、下に「見ざる」、「聞がざる・言わざる」が並ぶ駒形庚申塔、横の大正15年(1926)造立「手水鉢」から、同年代頃の造立かと思われます。
大田区羽田・穴守稲荷神社庚申塔


















招福砂を背負った鼠印が捺された奥之宮御朱印、穴守稲荷神社御朱印。
穴守稲荷神社・奥之宮御朱印穴森稲荷神社御朱印
弁天橋東詰め(羽田空港1丁目)に、昭和初期に旧鎮座地(羽田穴守町)の門前に建立された旧大鳥居。
第二次世界大戦後(S20年)米軍の軍事基地拡張に伴い、羽田穴守町・〃鈴木町・〃江戸見町一帯は強制退去となり、建物等全て取り壊されました。
然し、大鳥居だけは地内に残され、同27年の返還で国際空港の開港後も旅客ターミナルの一角に残され続け、平成11年現在地に移設されました。
大田区羽田空港・弁天橋の穴守稲荷神社大鳥居
















羽田地域では平治年間(1159~60)頃から漁業が行われていました。 天明4年(1784)頃、羽田漁師町名主・鈴木弥五右衛門は、羽田村名主・石井四郎右衛門から要島と呼ばれていた干潟地を譲り受け、村民らと共に開墾(現・羽田空港1、2丁目一部)を開始。
文化12年(1815)頃、完成した造成地は鈴木新田(後に羽田穴森町・〃江戸見町・〃鈴木町となる)とし、同時に従事した人々もここに移住しました。
旧大鳥居の傍らに当地の開祖「氏神 鈴木弥右衛門碑」(標柱)。
大田区羽田空港・穴守稲荷神社大鳥居・鈴木弥右衛門碑

















鈴木新田跡(区文化財)。
鈴木新田趾
















秋の夕暮、鴈の群れ、群生する芦や帆掛け船、鈴木新田の守り神「穴守稲荷」が描かれた天保9年(1838)刊行・広重の「江戸近郊八景之内羽根田落雁」。
江戸近郊八景・羽根田落雁















海老取川に架かる辦天橋(西詰め)。
大田区羽田空港・瓣天橋
















左右の欄干には、「ひび作り ひび立て 海苔取り 海苔付け ひび作り」等海苔が出来る過程を描いたプレートが嵌め込まれています。
大田区羽田空港・弁天橋欄干の絵1大田区畔で3打空港・弁天橋欄干の絵2
橋の手前には、漁師が獲った白魚を奉納したことに因む白魚稲荷神社が祀られています。
江戸初期以降の創建とされ、羽田七福いなり巡りの一社。
大田区羽田・白魚稲荷神社
























埼玉県南埼玉郡宮代町のマンホール

埼玉県南埼玉郡宮代町・カラー汚水(中川水循環センター)


中川水循環センターで撮影。







カラー汚水用には中心に「町章」、周囲に特産物「巨峰」がデザインされています。











埼玉県八潮市のマンホール

埼玉県八千代市・カラー汚水(ハクセキレイ)


八潮、県54号歩道で撮影。






カラー汚水用には小魚を銜えた市の鳥「ハクセキレイ」、
「Yashio」・「Osui」文字がデザインされています。








八潮市・汚水(ハクセキレイ)









同デザインの汚水用。









埼玉県八千代市・照明



中央、県54号歩道で撮影。






中心にシンボルマーク「八潮ツリー」、ツリー土台に「Yashi city」文字入りの照明用。







埼玉県八潮市・ccbox









中心角に「市章」入りの舗道枠のC・C・BOX。









埼玉県八潮市・カラー汚水(イチョウ・クチナシ)


八潮市役所付近で撮影。







中心に市の花「クチナシ」、三重円に小・中・大の市の木「イチョウ」がデザインされたカラー汚水用。








埼玉県八潮市・カラー汚水(ベージュ)


八潮駅付近の歩道で撮影。







同デザインのカラー汚水用(ベージュ)。









埼玉県八潮市・汚水枡(クチナシ)


八潮駅付近で撮影。






市の花「クチナシ」の汚水枡。








埼玉県八潮市・カラー消火栓










「市章」、「梯子車」のカラー消火栓。









埼玉県八潮市・止水栓









シンボルマーク「八潮ツリー」の止水栓。








埼玉県八潮市・量水器






土台に「やしお」文字入りの「八潮ツリー」の量水器。






八潮市・水道仕切弁(s-13-75)









土台に「Yashio City」文字入り「八潮ツリー」、「S13・75」のカラー水道仕切弁。






埼玉県八潮市・水道仕切弁(s17-100)








「S17・100」の仕切弁。






埼玉県八潮市・水道仕切弁(s30-300)









「S30・300」の仕切弁。









埼玉県八潮市・水道仕切弁(番号なし)










上の3枚と違い、八潮ツリーの左右に「水道 しきり弁」文字、番号無しの水道仕切弁。








埼玉県八潮市・仕切弁








「市章」入り仕切弁。













埼玉県北葛飾郡庄和町(現・春日部市)のマンホール

平成17年(2005)10/1、隣接する春日部市と合併しました。
江戸後期、繭や米収穫量等の発展祈願で始まった凧揚げ祭りが今も伝承されています。
埼玉県北葛飾郡庄和町(春日部市)・カラー汚(中川水環境センター)


中川水循環センターで撮影。






カラー汚水用には町の木「モクセイ」、町の花「ハナショウブ」、
「大凧」がデザインされています。











埼玉県北葛飾郡松伏町のマンホール

埼玉県北葛飾郡松伏町・カラー汚(中川水循環センター)


中川水循環センターで撮影。





カラー汚水用には中心に「町章」と「まつぶしまち おすい」文字、
町の木「マツ」がデザインされています。














埼玉県上尾市のマンホール

※市の木[樫]は成長すると巨木になることから、誰にでも植えられ赤い実をつけるアオキが市民の木として制定されました。
昭和41年7/1、2代目の市章が制定されました。
埼玉県上尾市・合流(アオキ)


栄町で撮影。






合流(汚水・雨水)には市民の木「アオキ」がデザインされています。








埼玉県上尾市・汚水(アオキ)


仲町・県164号で撮影。







同デザインの汚水用。









埼玉県上尾市・カラー雨水(アッピー・樫の葉と実)


谷津で撮影。






中心にイメージキャラクター「アッピー」、放射状に市の木「樫の葉・実」のカラー雨水用。









埼玉県上尾市・雨水(アッピー・樫の葉と実)








同デザインの雨水用。











埼玉県上尾市・合流(大綱引き)








カラー合流(汚・雨水)用には、鼠・牛・虎・兎・猿等の「あげお中山道大綱引き祭り(昭和61年~・5回開催)がデザインされています。








埼玉県上尾市・雨水JIS










「市章」入りのJIS規格雨水用。









埼玉県上尾市・汚水枡


栄町で撮影。





市名「上尾」の汚水枡。








埼玉県上尾市・仕切弁








「市章」入り仕切弁。










埼玉県上尾市・量水器






「アッピー」入りの量水器。








埼玉県北足立郡伊奈町のマンホール

埼玉県北足立郡伊奈町・カラー汚水


中川水循環センターで撮影。






「INA OSUI」文字、町の花「バラ」をデザインしたカラー汚水用。














埼玉県岩槻市(現・さいたま市)のマンホール

平成17年(2005)4/1、岩槻市はさいたま市に編入合併して、さいたま市岩槻区となりました。
埼玉県岩槻市(さいたま市)・カラー汚水


本町、R122号舗道で撮影。




カラー汚水には下部に「人形の町いわつき」、 
岩槻城址公園にある「岩槻城城門(黒門・文化財)」とサクラ(上)、
菖蒲池に架かる朱塗りの「八ッ橋」(右下)、
公園近く(北西)の「時の鐘」(左下)、市の花「ヤマブキ」が三分割でデザインされています。








埼玉県岩槻市(さいたま市)・汚水


東武野田線:岩槻駅付近で撮影。







「人形の町 いわつき」文字の無い同デザイン汚水用。









埼玉県岩槻市(さいたま市)・汚水JIS


本町、R122号で撮影。






「市章」入りJIS規格汚水用(亀甲)。










埼玉県岩槻市(さいたま市)・仕切弁


岩槻駅付近で撮影。





「市章」入り仕切弁。









埼玉県岩槻市(さいたま市)・泥吐弁








「市章」入り吐泥弁。











埼玉県鳩ケ谷市(現・川口市)のマンホール

平成23年10/11、鳩ヶ谷市は川口市に編入合併しました。
埼玉県鳩ケ谷市(川口市)・汚水


三ツ和、県34号で撮影。







汚水用には中心に市の鳥「キジバト」、周りに市の木「モクセイ」がデザインされています。









埼玉県鳩ケ谷市(川口市)・雨水


安行領根岸で撮影。






同デザインの雨水用。










埼玉県鳩ケ谷市(川口市)・汚水(凹凸逆)


里、県34号で撮影。






同デザインの凹凸が逆、空間に「ドット」入りの汚水用。










埼玉県鳩ケ谷市(川口市)・カラー汚水(汚水文字入り)








下部に大文字「はとがやし おすい」の同デザインカラー汚水用ハンドホール。









埼玉県鳩ケ谷市(川口市)・カラー汚水H


里で撮影。




下部に「鳩ヶ谷市」文字の同デザインの汚水枡。










埼玉県鳩ケ谷市(川口市)・カラー汚水枡








同デザインの汚水枡(プラ)。










埼玉県鳩ケ谷市(川口市)・汚水(鳩・コンクリート)


鳩ヶ谷本町、県105号歩道で撮影。






舗道タイル枠蓋の上部左から市の花「カーネーション」、市の鳥「キジバト」、市の木「モクセイ」の汚水用。









埼玉県鳩ケ谷市(川口市)・角消化栓


里、県34号で撮影。





「市章」入りカラー角消火栓。








埼玉県鳩ケ谷市(川口市)・カラー消火栓(黄色)








色違いの角消火栓。








埼玉県鳩ケ谷市(川口市)・角形消化栓


里で撮影。






「市章」入り角消火栓(菱形)。







埼玉県鳩ケ谷市(川口市)・制水弁(100)


里、歩道で撮影。







「市章」、「φ100」のカラー制水弁。








埼玉県鳩ケ谷市(川口市)・制水弁(150)



里、県34号で撮影。






「市章」、「φ150」のカラー制水弁。








埼玉県鳩ケ谷市(川口市)・制水弁


三ツ和で撮影。






「市章」入り制水弁。








埼玉県鳩ケ谷市(川口市)・量水器


里で撮影。




「市章」入り量水器。











埼玉県川口市のマンホール

埼玉県川口市・汚水JIS


元郷で撮影。






「市章」入りJIS規格汚水用。









埼玉県川口市・汚水(格子にドット・ユリ)








中心円内に市の花「テッポウユリ」、
円上下に「KAWAGUCHI USUI」文字」のドットとバスケットチェック柄の雨水用。









埼玉県川口市・雨水(格子にドット・ユリ)








「USUI」文字無しの同デザイン雨水用。











埼玉県川口市・カラー汚水(ユリ・格子柄にドット)


末広、県107号で撮影。







市の花「テッポウユリ」を青色、「KAWAGUCHI OSUI」部分にオレンジを使用した同デザインのカラー汚水用。








埼玉県川口市・カラー汚水H(ユリ・格子・ドット)


末広、県107号歩道で撮影。






ローマ字部分に「黄色」を使用、
ドットと2本線を組合わせた格子柄の汚水用ハンドホール。







埼玉県川口市・カラー消火栓(放水中)


末広で撮影。






「市章」、「梯子車」、「放水する防火服姿の消防士」をデザインしたカラー消火栓。








埼玉県川口市・カラー消火栓









「市章」、「梯子車」、「ホースを持ち、敬礼する防火服の消防士」をデザインしたカラー消火栓。
ヘルメットに「消防徽章」入り。








埼玉県川口市・角消化栓








「市章」、丸を左右に並べたJIS規格カラー消化栓。








埼玉県川口市・カラー仕切弁(100)


元郷で撮影。





3つの台形で囲まれた中心円に「市章」、「仕切」、「φ100」のカラー仕切弁。







埼玉県川口市・補助弁









「市章」入りの補助弁。










埼玉県川口市・排水栓

青木、川口市役所付近で撮影。







カラー排水栓には中心円に「市章」、「φ350」、「排水栓」文字、放射状に描いた10個の「三角形」、三角形のドットと外周のドットが互い違いにデザインされています。








埼玉県川口市・ソフト仕切弁









排水栓と同デザインのソフト仕切弁。










埼玉県川口市・防火水槽


幸町で撮影。







「消防徽章」内に「市章」、上下に「防火・水槽」文字のカラー防火水槽。







埼玉県川口市・防火用水槽


安行領根岸で撮影。






「消防徽章」内に「市章」、上に「防火用水槽」、下に「川口市」文字、左右に2個の鍵穴付、防火水槽(上写真)より凹凸があり、太めの外枠付のカラー防火用水槽。













大田区本羽田・羽田神社と羽田神社別宮

羽田神社(本羽田3-9-12)は京急空港線・大鳥居駅西口から南へ徒歩15分程の産業道路(都6号)沿いに鎮座、天皇様と呼ばれ親しまれている古社。
往時、疫病や祟りを恐れる人々の間に、これらを除ける神「牛頭天皇」を祀る信仰が広まりました。
鎌倉期、羽田浦の水軍で活躍した領主・行方与次郎が、北側に隣接する自性院(本羽田3-9-10)境内に牛頭天王社をお祀りしたのが当社起源とされます。
江戸期には徳川家、徳川家と縁戚深い島津氏、藤堂氏の篤い崇敬を受け、降盛をきわめたと伝わる羽田村(現・本羽田) 羽田漁師町(現・羽田)の鎮守です。

神仏分離で北側の自性院から独立して八雲神社に、同40年(1907)羽田神社に改称されました。
祭神「素戔嗚尊 稲田姫尊」を安置。

東向きの社頭、社号標「邨社 羽田神社」、明治2年(1869)羽田西町の奉納「石灯籠」一対、一ノ鳥居(靖国鳥居)、右に神楽殿。
大田区羽田・羽田神社社頭
















入口左(南東角)に復興記念碑 八雲神社碑 山灯籠等の石塔群。
大田区羽田・羽田神社入口左の石塔群
















一ノ鳥居前、宝珠を載せた灯籠の台座正面の「龍」彫刻、左側は珠を持ち、左右共に参道側に頭を向けています。
大田区羽田・羽田神社一の鳥居の左石灯籠台座大田区羽田・羽田神社一の鳥居の右石灯籠台座
二ノ鳥居(靖国鳥居)、左に手水舎、その後方に社務所。
大田区羽田・羽田神社二の鳥居
















台石に唐獅子(昇・降)彫刻の文政11年(1828)建立、明治10年(1877)再建「狛犬」。
大田区羽田・羽田神社狛犬吽大田区羽田・羽田神社狛犬阿
ニノ鳥居を潜ると、左に神紋「三ツ巴紋」入り、祭神にあやかる「牛口」を置いた明治27年(1894)造立「手水鉢」。
大田区羽田・羽田神社手水鉢















権現造りの社殿(鉄筋コンクリート)は昭和63年(1988)造営、入母屋造りの拝殿。
大田区羽田・羽田神社拝殿
















爽やかな緑色を基調とした向拝、蟇股「菊」。
大田区羽田・羽田神社拝殿向拝

















公爵・神社本廳統理:鷹司信輔氏揮毫の扁額「羽田神社」。
大田区羽田・羽田神社拝殿扁額















神紋入りの二重の神殿幕が掛り、左大臣・右大臣を置く拝殿内。
大田区羽田・羽田神社拝殿内
















本殿は高欄を巡らした流造り。
大田区羽田・羽田神社本殿
















社殿左、富士塚入口に扁額「羽田富士山」が掲げた鳥居。
大田区羽田・羽田神社の羽田富士塚鳥居
















東日本大震災(平23・2011)の際、当社も樹木や灯籠倒壊・伽藍の屋根等に被害を被りました。 
鳥居を潜ると、倒壊の際に参道に寄り添う様に落下した石燈籠の擬宝珠が奉鎮されている。
大田区羽田・羽田神社・参道沿いの元灯籠擬宝珠
















奥には明治初期に築造され、羽田富士で知られる区内唯一の「富士塚」(区有形文化財)があります。
富士塚参詣の習俗は、江戸中期(安永期1772~80)頃から各地に広まり始め、羽田地区においては昭和50年代まで富士講中による山開き(7/1)が行われていました。
大田区羽田・羽田神社の富士塚
















樹木に囲まれた塚は比較的小さく、頂上までは4~5m位でしょうか、木花講中奉納の石碑群や石祠、頂に鎮座する浅間神社(木花咲姫命)の鳥居前には狛犬が鎮座しています。
羽田神社の富士塚
















境内右手(東)注連縄の「八雲神社」扁額、八雲神社(疱瘡神)の「疱瘡除祈願御札の碑」(写真左側)。
天保12年(1841)、13代徳川家定が蔓延していた疱瘡の病気平癒を牛頭天王社(当社)に祈願、その事績によ建立されました。
碑には「当社氏子の輩十五歳以降は男女とも疱瘡すべからず、たとへ十五歳なりともかならず安全に致す事にて、ひとへに大神の神力加護にあづかる処なり、依って信心の銘々氏子加入の志これある輩、社務所に申出られ、御札守木差し可申候 文久元酉正月」と刻まれている。
大田区羽田・羽田神社八雲神社(疱瘡神)の碑
















社殿右に商売繁盛・家内安全等に御霊験あらたかな境内社4社が祀られています。
手前に鈴納稲荷神社(祭神:宇迦之御魂神)。 鈴木新田(鈴納耕地)の安全祈願に、天明5年(1785)羽田漁師町の名主・鈴木弥五右衛門屋敷近くに創建、昭和31年(1956)合祀。
増田稲荷神社(創建年代不詳、祭神:宇迦之御魂神)。 首都高上り線羽田出口(羽田1-10辺り)付近から戦後に合祀。
大田区羽田・羽田神社境内社
















山王さんで親しまれている日枝神社(祭神:大山昨命)は、江戸中期創建された西町 前河原の守護神。
昭和36年(1961)合祀。
大田区羽田・羽田神社境内社日枝神社
















玉・子取りの狛犬(建立年代不明・石工鈴木喜太郎)。
大田区羽田・羽田神社境内社日枝神社狛犬吽大田区羽田・羽田神社境内日枝神社狛犬阿
阿形(右)は欠損していますが、大きな尾からは漲る力強さを感じます。
大田区羽田・羽田神社境内社日枝神社吽バック大田区羽田・羽田神社境内社日枝神社阿バック
羽田稲荷神社(祭神:宇迦之御魂命)は当社西側・井上軍左衛門(現・本羽田3丁目)の屋敷神でしたが、昭和55年(1980)合祀。又、本殿右の鳳輩庫には、昭和39年(1964)製作・2代目神輿「鳳輩」が安置されています。
大田区羽田・羽田神社境内社 羽田稲荷神社
















西方約1kの境外飛地(本羽田1-29-5)に羽田神社別宮(祭神・素戔嗚尊 稲田姫尊)。 
羽田神社の発祥の地と伝わり、御旅所となっています。 境内には「羽田神社御旅所碑」、「耕地整理記念碑」、「邨社 羽田神社」があります。
大田区羽田・羽田神社御旅所
















扁額「羽田神社御旅所」。
大田区羽田・羽田神社御旅所扁額











御朱印。
大田区羽田・羽田神社御朱印大田区羽田・羽田神社富士塚御朱印








大田区東六郷・六郷神社

六郷神社(東六郷3-10-18)は京急六郷土手駅から徒歩6分程、六郷一円の総鎮守です。
天嘉5年(1057)源頼義・義家父子は、当地の大杉に源氏の白旗を懸け軍勢を募り石清水八幡宮に戦勝祈願、前九年の役の勝利凱旋後、御分霊を勧請して八幡宮を創建したことに始ります。
又、文治5年(1189)頼朝は奥州合戦に赴く際、祖先の吉例にならい大杉に白旗を懸け戦勝祈願をしている。 2年後の建久2年(1191)、その御神徳に深謝し社殿を造営しました。

神仏分離令後の明治5年(1872)東京府郷社に列し、同9年(1876)六郷神社に改称されました。
祭神「誉田別尊(八幡大神)」を安置。

表参道口(南向き)に社号標「六郷神社」と松、昭和12年(1937)造立「明神鳥居」、透塀を連ねた切妻造り「神門」。
大田区南六郷・六郷神社南鳥居
















鳥居前に建久2年頼朝が社殿造営の折、臣・梶原景時が寄進と伝わる神橋(太鼓橋)、火灯口を配した勾欄にはいくつもの雨だれ跡等、長い歴史を感じさせます。
大田区南六郷・六郷神社南鳥居前の石橋
















神門から南に伸びる道、六郷土手(かつての六郷の渡しの辺り)に向かってほぼ一直線に伸びています。
大田区南六郷・六郷神社神紋(境内側)
















北に伸びる参道は左(西)へ分岐、(右から)境内社稲荷神社(宇迦御魂命) 氷川神社(素盞鳴命) 天祖神社(天照大神) 三柱神社(日本武尊 大物主命 布津主命 天本太命 天児屋根命)が祀られています。
大田区南六郷・六合神社南参道左の境内社

















慶長5年(1600)家康により六郷橋が架橋され、後、架けられた橋も幾度となく洪水被害で流失している。
境内社の左に、明治43年(1910)洪水被害後に架橋された仮橋(木橋・大正2年洪水で流失)の親柱があります。
の六郷神社・旧六郷橋の親柱





























更に左に、「富士嶺の黄金能井戸乃その水能此の神井尓福し?る」と刻まれた富士に「丸に三つ引紋」の六郷講社、 御嶽講社 天祖神社、東郷平八郎書による忠魂碑等の石塔石碑群があります。
大田区南六郷・六郷神社・境内南西側石塔群












    



往時、拝殿東側に源氏の白旗を懸けた御神木「杉」がありましたが、大正11年(1922)に枯れています。
忠魂碑の左に、由来を記した「簱懸之由来石碑」を前に、源頼義・義家父子や頼朝が白旗を懸けた御神木「スギ」(樹齢千年)の根株、傍らに石扁額「六郷神社」2面が置かれています。
大田区南六郷・六合神社旧御神木
















右に手水舎、参道はすぐ先から左に分岐し、旧東海道に面した脇参道口(西参道)へと伸びています。
大田区南六郷・六合神社手水舎
















拝殿前の昭和12年(1937)建立「狛犬」。
大田区南六郷・六郷神社南参道狛犬吽大田区南六郷・六郷神社南参道狛犬阿
入母屋造りの拝殿。
大田区南六郷・六合神社拝殿
















神紋「三ツ巴紋」入り扁額「六郷神社」。
大田区南六郷・六郷神社拝殿扁額













鬼瓦・懸魚等、波模様の蟇股にも「神紋」。
大田区南六郷・六合神社拝殿向拝蟇股


















木鼻や蟇股には神紋が施されています。
大田区南六郷・六郷神社拝殿の蟇股
















昭和62年(1987)、鎮座九百三十年祭で造営された権現造りの社殿(拝殿・幣殿)。
大田区南六郷・六郷神社社殿(東側)
















往時、当社は八幡三神(誉田別尊 神功皇后 比売大神)を祀っていたことから、享保4年(1719)造営・三間社流造り「本殿」(昭和62年修復)は八幡三神を安置する建築様式となっています。
大田区南六郷・六郷神社本殿
















社殿右手、かつての御神木の場所に「御神木旗懸乃杉旧趾碑」。
大田区南六郷・六郷神社社殿横の御神木旗懸乃杉旧趾碑
















「六郷の惣鎮守尓して八幡塚村尓あり」と記され、東海道左右に八幡塚村の集落や松並木が描かれた江戸名所図会「八幡塚 八幡宮」。
江戸名所図会・八幡塚八幡宮(六郷神社)1江戸名所図会・八幡塚八幡宮(六郷神社)2
「本社より右の方の蒼林の中尓あり 一堆の塚尓して樹木繁茂せり」と記され、江戸名所図会の社殿上の方に2基の鳥居と「八幡塚」が描かれています。
絵図からの位置と大分違いますが、この八幡塚が境内東側に残されています。
大田区南六郷・六郷神社の八幡塚
















八幡塚の前の狛犬。 建立年代不明ですが、台石後側面に大正8年(1919)修復、後面に「丸に六紋」舟若中と刻まれています。
大田区南六郷・六郷神社八幡塚狛犬吽大田区南六郷・六郷神社八幡塚の狛犬阿
尾の大きさも右(阿形)に比べ吽形(左)は低く小さい。
大田区南六郷・六郷神社八幡塚狛犬吽バック大田区南六郷・六郷神社八幡塚狛犬阿バック
社殿左(西)に神楽殿。
大田区南六郷・六郷神社神楽殿
















社務所前から左(西)に分岐する脇参道。
大田区南六郷・六郷神社西参道(脇参道)

















脇参道の右に貞亨2年(1685)建立「狛犬」、吽形(左)は小さな宝珠を載せています、石工・三右衛門。
大田区南六郷・六郷神社西参道沿いの狛犬吽大田区南六郷・六郷神社西参道沿いの狛犬阿
六郷仲町の有志が二世安楽祈願で奉納、台石の側面(参道側)に奉納者名、前面「御神前二世安楽之祈」と刻まれ、区内最古で区有形文化財に指定されています。
大田区南六郷・六合神社頼朝奉納の狛犬


















向かい(参道左)には「奉奇進御手水鉢」と刻まれた天和3年(1683)造営「手水鉢」。
大田区南六郷・六郷神社西参道沿いの手水鉢















狛犬の先の右小路に、明和6年(1769)建立「天下泰平 国家安穏 奉造立花表總氏子」石塔や石碑。
大田区南六郷・六郷神社脇参道(西)右の石塔群
















すぐ先に頼朝が社殿造営時、社宝「雌獅子頭」と共に奉納した「手水石」。
大田区南六郷・六郷神社頼朝寄進の手水鉢
















旧東海道(R15)に面して西鳥居(明神鳥居)と社号標「六郷神社」。
江戸名所図会によると、脇参道の鳥居の先に切妻造りの「神門」が描かれていますが、往時の様子と余り変わっていないことが分かります。
大田区南六郷・六郷神社西参道鳥居

















実は当社の参拝は2度目、旧東海道 を歩いた7年前以来です。 当時、時間に追われながら写真を撮り、足早に六郷橋を渡ったこと等、懐かしく思い出します。
今回、御朱印を拝受しました。
六郷神社御朱印





















神奈川県中郡二宮町・吾妻神社と吾妻山公園

縁結びの神として信仰されている吾妻神社(山西1117)は、JR二宮駅の北西の吾妻山(136.2m)に鎮座する梅沢の鎮守です。
第12代景行天皇の代、日本武尊が東征の折、浦賀水道で暴風雨に遭い、妻・弟橘媛が海神を鎮めて夫の武運を祈る為、「さねさし 相模の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問いひし君はも」と詠み入水、忽ち荒れ狂う海面は静まり無事に上総へ渡れました。 
7日後、流れ着いた弟橘媛の御櫛や小袖を埋め、御陵としたのが起源です。

社名は、日本武尊が東征の帰路、相模・足柄の峠より東方の海を眺めながら、身を犠牲にした妻を想いながら「吾妻はや(ああ、吾が妻よ)」と嘆かれことに因みます。
祭神「弟橘媛命 日本武尊(配祀)」を安置。

吾妻山へは東(駅北口)・南ルートの2ヵ所あります、南口を出て西へ徒歩7分程、江戸期に間の宿「梅沢立場」で賑わった東海道(R1号)沿いに社号標「吾妻村梅澤 吾妻神社」、一ノ鳥居(明神鳥居)、後方(北)の山並みが吾妻山です。
中郡二宮町・吾妻神社一の鳥居

















右にも岩山の上・下に社号標「吾妻神社」。
中郡二宮町・吾妻神社社頭右の石塔

















参道は線路に突き当り、歩道橋で東海道本線を跨ぎます。
中郡二宮町・吾妻神社参道(歩道橋)
















向かいに神明社の参道(石段)、右が吾妻山(吾妻神社)への上り口(参道)です。
中郡二宮町・吾妻神社と神明社参道1
















段上に祭神「天照大神」を祀る神明社、社殿右に五輪塔や石祠、左には道祖神・地神・馬頭観世音・地蔵菩薩等石塔石仏群が祀られています。
中郡二宮町・神明社社殿

















ここから丸太の木止め階段です。
中郡二宮町・吾妻神社参道の木止め道
















夏の終わりを告げるかの様にヒグラシの声が山中に響き渡ります。
中郡二宮町・吾妻神社の九十九折参道
















左~右~左と6回程折れる九十九折の参道(山道)を約7分上ると、昭和5年(1930)造立「二ノ鳥居(台輪鳥居)」。
中郡二宮町・吾妻神社二の鳥居
















昭和5年(1930)建立「狛犬」。
中郡二宮町・吾妻神社狛犬吽中郡二宮町・吾妻神社狛犬阿
傍らに、鳥居に掲げられていた石扁額「吾妻宮」が置かれています。
中郡二宮町・吾妻神社二の鳥居脇の石扁額
















参道左に手水舎。
中郡二宮町・吾妻神社手水舎

















参道沿いに「吾妻大權現御寶前」と刻まれた正徳4年(1714)造立「灯籠」一対、右奥に享和3年(1803)六本木奥惣女中により奉納された「手水鉢」、更に奥東に三武社、奉納額を刻んだ石塔群があります。
中郡二宮町・吾妻神社境内右の灯籠と手水鉢















社殿は相模湾(南)に向いています、朱の高欄を巡らした入母屋造りの拝殿。
中郡二宮町・吾妻神社拝殿
















向拝には「植物の蟇股」。
中郡二宮町・吾妻神社拝殿向拝















鬼瓦や賽銭箱に神紋「桐」。
中郡二宮町・吾妻神社賽銭箱













本殿は玉垣に囲われています。(東側)。
中郡二宮町・吾妻神社社殿
















千木・鰹木の流造りの本殿(西側)。
中郡二宮町・吾妻神社本殿(西側)

















木鼻「唐獅子」、破風や妻壁に牡丹等の植物彫刻、高欄・垂木・尾垂木・破風板等に彩色(朱)が施されている。
中郡二宮町・吾妻神社本殿(東)
















脇障子には中国故事に因む彫刻、題材は不明ですが、左側「岩山で右手に木枝の杖、腰に2つの瓢箪を下げた翁」、右側「満開の琵琶の花、下の方で実を採る仕草の翁」。
中郡二宮町・吾妻神社本殿左脇障子中郡二宮町・吾妻神社本殿右脇障子
山中にひっそりと佇む社殿(境内南側から)。
中郡二宮町・吾妻神社境内
















南西に天保4年(1833)造立「手水鉢」、地蔵菩薩、三猿を置く笠付庚申塔等の石仏石塔群、この左側から展望台へ。
中郡二宮町・吾妻神社境内から展望台への道
















吾妻神社の鎮座に因む吾妻山は、昭和62年公園として開園、山頂は一面の芝生に覆われ、咲き始めたコスモスに爽やかな風が吹き抜けます。 
公園の整備等や「相模路の余陵の濱の眞砂なす 児らは愛しく思はるるかも」(相模治乃 余呂伎能波麻乃 麻奈胡奈須 兒良波可奈之久 於毛波流留可毛…万葉集作者不明) と刻まれた吾妻山由来碑。
中郡二宮町・吾妻山山頂の由来碑
















快晴ならば正面に富士や大山が望めますが、微かに相模湾が望める生憎の曇天日和です。
眼下に広がる町並み「梅沢」の地名は、弟橘媛命の流れ着いた袖を埋めた地(埋め沢→梅沢)、又、前の袖ヶ浦海岸は命の袖が流れ着いたことに其々因みと伝わっています。
中郡二宮町・吾妻山山頂から相模湾
















尚、以前に参拝した走水神社(横須賀市走水)、橘樹神社(川崎市高津区)2社も夫婦祭神「日本武尊 弟橘媛命」を祀っています。







残り生地を生かしたハイビスカスとパワーネットのチュニック

一時、色・種類も豊富なパワーネットを部分的に使用したブラウス・ワンピース等が流行り、リーズナブルな価格から数種類買い込んでいました。
前回の残り生地と別布を組み合わせたチュニックです。
パワーネットのチュニックハイビスカス

デザイン
前後見頃に前回の残り生地を使用、前後中央にボックスプリーツ(5cm)、

生地が足りない(長さ)のを補う為、前後にパワーネット(ダークブラウン)を使用、ゆったりした6分袖の袖口はゴムシャーリングで長さ調節できます。
ガウチョにも合う着丈65㎝。




















世田谷区豪徳寺・世田谷城址公園と大谿山豪徳寺

松陰神社前を西へ7分程、世田谷城址公園手前に南西から北東に横切る遊歩道・烏山川緑道があります。

烏山川は、北烏山に源を発し、南東に流れ北沢川と合流して目黒川に注ぐ延長11.7K。 昭和45年以降に暗渠となりましたが、西側の世田谷城域の麓の三面(東 南 西)を囲むように流れ、自然の掘の機能を成していました。
世田谷区豪徳寺・烏山川(暗渠)緑道
















世田谷城址公園(都文化財・世田谷百景)は、往時の遺構(土塁や空堀)が現存することから、区内唯一の歴史公園として開園(昭和15年)。
南北朝期(1336~92)、初代吉良治家は足利尊氏から戦功による世田谷領を与えられ、応永年間(1394~426)居館を整備、後、城郭(平山城)として修築されたと考えられます。
以後、8代・2百年以上に渡る吉良氏の居城として栄え、吉良御所・世田谷御所と呼ばれました。
城域は、公園から豪徳寺一体までの南北に拡がり、 天正18年(1590)小田原北条氏滅亡と共に廃城となりました。

城山通り沿いの城址公園入口。
世田谷区・世田谷城址公園入口
















空掘跡。
世田谷区豪徳寺・世田谷城址公園の堀跡
















城址公園の北側に大谿山豪徳寺(豪徳寺2-24-7)。
文明12年(1480)城主・吉良政忠が伯母の菩提の為、城内に庵を結び、伯母の法号に因む「弘徳院」としたのが始まり、天正12年(1584)臨済宗から曹洞宗に改宗されました。
2代井伊直孝(初代・直正二男)は、大坂夏の陣の戦功で譜代大名筆頭となり、寛永10年(1633)世田谷が彦根藩所領となったことを機に、井伊氏の菩提寺として伽藍を創建。
万治2年(1659)直孝が没し、法号「久昌院殿豪徳天英大居士」に因み豪徳寺に改められました。
又、直孝が飼い猫により門内に招き入れられ、雷雨を避けて和尚の法談を聞けたことで、後、菩提寺としたという「招き猫伝説の発祥地」として知られています。

城山通り沿いに社号標「大谿山豪徳寺」、20m先から松並木が続く参道になります。        
世田谷区・豪徳寺入口

















強烈な日差しから解き放たれホッと一息、涼を感じる松並木。
世田谷区・豪徳寺参道の松並木





























山門
世田谷区・豪徳寺山門
















山門扁額「碧雲關(へきうんかん)」。
世田谷区豪徳寺・豪徳寺山門扁額













江戸期、境内周辺は豪徳寺十景として有名でした。緑豊かな参道正面に寺紋(井伊家の家紋)「丸に橘」、玉取りの唐獅子が乗る焼香台。
世田谷区・豪徳寺参道
















参道右(東)に鐘楼。
世田谷区豪徳寺・豪徳寺鐘楼

















下帯に草木(蔓性)模様の「梵鐘」(区有形文化財)、延宝7年(1679)江戸期の鋳物師・藤原正次による鋳造で区内最古です。
世田谷区豪徳寺・豪徳寺梵鐘

















左(西)に明治38年(1905)建立「忠正公神道碑」、奥に平成18年(2006)造営「三重搭」。
世田谷区・豪徳寺三重塔

















塔各面には、様々な動物(十二支)をモチーフとした蟇股が施されています。
左写真から:塔正面(東)左から「龍・兎・虎」、北面の左から「牛・猫・猪」等。〈※クリックで拡大〉
世田谷区豪徳寺・豪徳寺三重塔東面蟇股世田谷区豪徳寺・豪徳寺三重塔北面蟇股
北側(上写真の右側)の中央には「小判を銜えたネズミ・招きネコ」。
世田谷区豪徳寺・豪徳寺三重塔北面中蟇股の猫














中でも二層の間斗束の長押には、「招き猫」伝説の所以と思しき「金色の玉と遊ぶ三毛猫」が、参拝者を招くように境内を見下ろしています。
世田谷区豪徳寺・豪徳寺三重塔の猫














境内の伽藍等、豪徳寺の復興造営事業は、寛文期~延宝期(1661~80)にかけ、春光院(2代直孝の妻)と掃雲院(直孝の娘・亀姫)によって進められました。
焼香台の先に一対の「佛前石燈篭」、参道はここで左右(東西)に分岐します。 正面の仏殿は、黄檗宗の僧に深く帰依していた掃雲院が、3代藩主・真澄公(直孝5男)の菩提の為、延宝5年(1677)造営。
間口と奥行きの違い、唐草・渦等の文様彫りを施した絵様肘木(ひじき)等の黄檗様式風の造りとなっています。
世田谷区・豪徳寺仏堂
















掃雲院は、深く帰依していた黄檗宗の僧・鉄眼道光に多大な影響を受けていました。
殿内には、鉄眼の弟子で江戸期を代表する仏師・洛陽仏工祥雲(松雲元慶)に、五体一具として造らせた延宝5年作の五体木像「大権修利菩薩椅像・弥勒菩薩坐像・阿弥陀如来坐像・釈迦如来坐像・達磨大師坐像」が安置されています。
世田谷区豪徳寺・豪徳寺仏堂内
















仏殿には二つの扁額が掲げられ、正面に山号扁額「大谿山」。
世田谷区豪徳寺・豪徳寺山号扁額












屋根下小壁には、江戸期の曹洞宗を代表する禅僧・月舟宗胡の揮毫扁額「弎世佛」。
「弎」は弥勒菩薩、「世」は釈迦、「佛」は阿弥陀で、過去・現在・未来を祀っていることを表しています。
世田谷区豪徳寺・豪徳寺仏堂扁額














仏殿の後方(北)に昭和42年(1967)造営「本堂」(鉄筋コンクリート造り)、本尊「釈迦如来」を安置。
世田谷区豪徳寺・豪徳寺本堂
















本堂に掲げられた扁額「豪徳禅寺」。
世田谷区豪徳寺・豪徳寺本堂扁額













左に書院、向かい(東)に社務所があります。
世田谷区豪徳寺・豪徳寺書院
















境内は生い茂る緑で暑さを忘れる程です、仏殿左(西)に扁額「招猫庵」を掲げる招猫庵門。
世田谷区豪徳寺・豪徳寺招猫殿の門
















江戸期、招福を願う花柳界の人達が多く参拝に訪れたと云う、「招猫観音」を祀る招猫庵。
世田谷区豪徳寺・豪徳寺招猫庵
















庵内。
世田谷区豪徳寺・豪徳寺招猫殿内
















境内には、右手を挙げた大小様々な招き猫が奉納されています。
世田谷区豪徳寺・豪徳寺招猫庵の境内の招き猫














招き猫。
世田谷区豪徳寺・豪徳寺招猫庵の招き猫














又、門近くの祠には「三面6臂馬頭観世音」が祀られています。
世田谷区豪徳寺・豪徳寺招猫殿境内左の馬頭観世音


















更に参道を西へ進むと、井伊家・歴代藩主やその家族、藩士と家族等の彦根藩井伊家墓所(国史跡)。
墓所の北西角に9代直禔墓(見性院殿)と2代直孝公墓(久昌院殿)が並び、その右手(西)には豪徳寺の復興に勤めた掃雲院(直孝の娘・亀姫)墓、東側に6代直恒(円成院殿)・西側に10代直幸墓(大魏院殿)・南西側に14代直憲墓(忠正院殿)等、約三百基余の墓石が並びます。
世田谷区豪徳寺・豪徳寺彦根藩井伊家墓所
















西側奥に、幕末の志士・吉田松陰や木戸孝允らの「安政の大獄」による批判から、安政7年(1860)桜田門外に於いて旧水戸藩士・旧薩摩藩士らに暗殺された15代(13代当主)井伊直弼墓(都史跡)。  高さ342㎝の墓石正面に「宗観院殿正四位上前羽林中郎将柳暁覚翁大居士」と刻まれています。
世田谷区豪徳寺・豪徳寺の井伊直弼墓
















御朱印。
世田谷区豪徳寺・豪徳寺御朱印


























世田谷区若林・松陰神社

幕末期、明治維新へと導いた人々に関係する世田谷区の寺社を巡ります。
松陰神社(若林4-35-1)は、東急電鉄世田谷線・松陰神社前駅から徒歩5分程に鎮座、幕末期の志士・吉田松陰を祀る社として知られ、学問の神として篤く信仰されています。
鎮座地一帯は、江戸前期(寛文12年1672)に長州藩が土地を買い藩主別邸が置かれた所で、長州毛利氏の官位「大善大夫」に因み、大夫山・長州山とも呼ばれていました。

松陰は、日米通商条約を批判、老中・間部詮勝(鯖江5代間部詮熙5男)暗殺の企て等の“安政の大獄”により、安政6年(1859)伝馬町で斬首刑(享年30歳)に処せられ小塚原回向院に埋葬されました。
文久3年(1863)、門弟高杉晋作らが松陰の安住地として、大夫山(現在地)西側の楓の傍らに移葬、明治15年(1882)墓の東側に小堂を建立、松陰神社としました。
祭神「吉田寅次郎藤原短矩方命」を安置。

折しも参拝日は松陰夏祭り(8/5~6)で、神社周辺や境内にはテントが張られています。
南向きの社頭に「社号標」、島木に吉田家の家紋「五瓜に卍」の明神鳥居。
世田谷区若林・松陰神社社頭
















参道右の神輿殿には、創建116年を経て完成した神輿2基を安置、神楽殿板壁前には夏祭りのライブペィンテイングで、松陰の幼名(虎之助)に因む「松林虎図」が掲げられています。
世田谷区若林・松陰神社神楽殿















参道沿いに、明治23年に彫刻家・大熊氏廣氏製作の松陰像(石膏)を、鎮座130年記念で鋳造された吉田松陰像(ブロンズ)。
左手を帯に挟み、右手に本を持つ沈思黙考の表情です。
世田谷区若林・松陰神社吉田松陰像
















左に手水舎。
杉並区若林・松陰神社手水舎
















手水舎後方に、旧大山道(世田谷通り)から当社への分岐点に建立された「松陰神社道」と刻まれた道標、右に明治41年(1908)思想家・徳富蘇峰(猪一郎)が、「吉田松陰」の発刊に伴い植樹と共に建立した「景慕英風植樹表誠碑」が並びます。
世田谷区若林・松陰神社道標他

















社殿手前、参道を挟み西~東に26基、社殿前の参道沿いに6基、竿に書家高田竹山による八分隷書体が刻まれた石燈籠32基が並びます。 
松陰五十年祭にあたる明治41年(1908)、毛利元昭公(毛利藩14代毛利元徳の長男)、吉川經健公(周防岩国藩2代)、松下村塾門下の伊藤博文 木戸孝正 山県有朋 桂五郎などにより奉納されました。
世田谷区若林・松陰神社奉納灯籠
















門弟等により造営された旧社殿は、本殿の内陣として遺されています、現社殿は昭和2~3年(1927~8)造営、拝殿は切妻造り。
杉並区若林・松陰神社社殿

















神紋「五瓜に卍」を染め向いた神殿幕。
世田谷区若林・松陰神社拝殿神殿幕
















拝殿内。
世田谷区若林・松陰神社拝殿内
















社殿左(西)に社務所。
世田谷区若林・松陰神社社務所















社殿右(東)に昭和17年築「松下村塾」。
玉木文之進(松陰の叔父)の私塾を引き継いだ松陰が、安政3~5年(1856~8)の約2年半、明治維新の原動力となった多くの門弟に、‘生きた学問’と云われる教育を施した萩市・松陰神社の松下村塾を模した建物。
世田谷区若林・松陰神社松下村塾
















西側に左手に本、右手を膝に置き、羽織・帯刀の松陰像、参道沿いの像とは顔や表情も全く違います。
世田谷区若林・松陰神社松下村塾の松陰坐像
















講義室東小壁には、門弟達に示す「教育の目的」を記した額、君臣の義(君主、臣下の間で守るべき正しい道)・華夷の弁(日本・外国の違いを明確にする事)・奇傑非常の人(人並み以上の優秀な人材)が掲げられています。

又、床の間には、安政6年江戸に護送される前、同門・松浦松洞が肖像画を、松陰が賛を記した条幅が掛けられています。
「大意」『私の命は国家に捧げており、生死に関係なく忠誠心に変わりはない。至誠を尽くせば心を動かさない者はいないと孟子は述べているが、古来の賢人達には及ばないまでも、その追い求めた道を精一杯追慕したい』
これら(肖像と自賛6幅・賛2幅)は親族と門下生に形見として与えられました。
世田谷区若林・松陰神社松下村塾講義室

















又、講義室の前庭には、松陰先生五十年祭記念碑・〃百年祭記念碑、玉木正之乃碑(文之進2代目)。
世田谷区若林・松陰神社松下村塾石碑
















境内左側(西)、鳥居の先で直角に右(北)に折れると松陰先生他列士墓所です。
世田谷区若林・松陰神社松陰らの墓域入口
















元治元年(1864)禁門の変の後、幕府は長州征伐の折に松陰先生以下の墓を破壊しました。 4年後の明治元年(1868)、木戸孝充らにより修復され、入口にはその際に木戸孝充が奉納した明神鳥居があります。
世田谷区若林・松陰神社・松陰等の墓域入口の鳥居

















左柱「木戸大江孝充」、右柱「大政一新之歳」と刻まれています。
世田谷区若林・松陰神社の松陰墓入口鳥居左柱世田谷区若林・松陰神社の松陰墓域入口の鳥居右柱
「墓域案内図」
①吉田寅次郎藤原短矩方(号・松陰 享年30) ②小林民部少輔(小塚原回向院より改葬 享年52) ③頼三樹三郎(儒者 享年35) ④来原良蔵(長州藩士 享年34) ⑤福原乙之進(長州藩士 享年27) ⑥綿貫治良助(長州藩士 享年29) ⑧長州藩邸没収事件関係者慰霊碑
⑬徳川家寄進の石燈籠一対、水盤 ⑭木戸孝充奉納の鳥居(上の写真)
世田谷区若林・松陰神社松陰先生墓案内図
 
















正面(北)玉垣内に列士墓所(①~⑧)、参道際左右の石燈籠一対と、水盤(写真右下)は、徳川氏から墓所破壊の謝罪の意として奉納されました。
世田谷区若林・松陰神社の松陰墓域と幕府奉納手水鉢
















松陰(吉田寅次郎藤原短矩方)墓。
世田谷区若林・松陰神社の松陰墓域
















水盤前を右に進むと、松陰亡き後に松下村塾を監した⑦中谷正亮墓(長州藩士 享年35)。
世田谷区若林・松陰神社松陰先生墓地・中谷正亮墓















奥には、長州藩士として長州征伐・戊辰戦争に参加した政治家・桂太郎が、明治37年(1904)建立した⑩「長藩第四大隊戦死者招魂碑」。
世田谷区若林・松陰神社烈士の墓の長藩第四大隊戦死者招魂碑
















御朱印を拝受の際、檜材の栞も頂きました。
松下村塾・講義室の床の間に掛けられていた条幅を“しおり”とした物です。
世田谷区若林・松陰神社御朱印松陰しおり
烈士墓所内に招魂碑を建立した桂太郎は、吉田松陰を敬愛し、「崇敬する松陰神社隣接地に葬るべし」との遺言により、西側の若林公園に葬られました。
陸軍大臣・内閣総理大臣等を歴任した桂太郎墓(区史跡)。
世田谷区若林公園内・桂太郎墓


















更に西へ250mの勝國寺へ。
吉良氏は、当地が世田谷城の東北に当たることから、裏鬼門除けに薬師如来を祀り、丸香山薬師院を創建しました。
後、勝国寺に改称されました。
世田谷区世田谷・勝國寺山門
















墓地には、吉田松陰と親交深かった、萩藩・維新の志士儒者「土屋蕭海(しょうかい)(矢之助)墓」があります。
世田谷区世田谷・勝國寺の土屋蕭海墓





















     
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