渋谷区道玄坂・千代田稲荷神社

千代田稲荷神社(道玄坂2-20-8)は、かって渋谷の中心街だった道玄坂途中の百軒(だな)商店街に鎮座。

長禄元年(1457)太田道灌は江戸城(江城・千代田城)の守護神として、城内に京都・伏見稲荷大社を勧請したのが創始です。 後、城内紅葉山に遷座後、慶長7年(1602)城地拡張で渋谷宮益坂へ遷座され、城名から千代田稲荷神社と称しました。

大正13年(1924)のしぶや百軒店の開発で、宮益坂から道玄坂へ遷座され、世界大戦後に再び現在地に遷座され、中川稲荷神社を末社としました。
商売繁盛 家内安全 縁結び等に御霊験あらたかな祭神「宇迦之御魂命 倉稲魂命」を安置。

レストランやホテル等が建ち並び、夕暮れからは一段と活気づく歓楽街の一角にあります。
社名入りの提灯が下がる参道口。
渋谷区道玄坂・千代田稲荷神社参道口

















境内は狭いですが綺麗に清掃され、地域の方々に篤く信仰されています。 
右に社務所、扁額「千代田稲荷神社」を掲げた明神鳥居。
渋谷区道玄坂・千代田稲荷神社境内
















蟇股「波」,、木鼻を施した手水舎、奥に絵馬掛け。
渋谷区道玄坂・千代田稲荷神社手水舎・絵馬掛け
















昭和37年(1962)建立、玉・子取りの狛狐。
渋谷区道玄坂・千代田稲荷神社狛狐吽渋谷区道玄坂・千代田稲荷神社狛狐阿 
社殿は神明造り、前に明治12年(1879)當村氏子中により奉納された一対の石燈籠、左右に赤い幟旗が掲揚されています。
渋谷区道玄坂・千代田稲荷神社拝殿
















拝殿には手水舎と同じ向拝「波」。
渋谷区道玄坂・千代田稲荷神社向拝
















余り見かけない浮彫文字の扁額「千代田稲荷」と拝殿内。
渋谷区道元坂・千代田稲荷神社拝殿内・扁額
















境内西に朱の鳥居3基、参道沿いに幟旗が並ぶ末社中川稲荷神社(祭神「倉稲魂命)。
渋谷区道玄坂・千代田稲荷神社境内社中川稲荷神社
















中川稲荷神社社殿。
渋谷区道玄坂・千代田稲荷末社中川稲荷神社





















横浜市金沢区洲崎・洲崎神社

洲崎神社(洲崎町9-28)は創建年代不詳ですが、元は約2.8キロ北の長浜に祀られていた鎮守第六天社が始まりです。 

往時の長浜は、十八町も海に突き出た海岸沿い(柴~富岡の北側)の町で、長浜千軒と云われた大きな漁村は繁昌を極めました。
応長元年(1311)の大津波で村が流失した為、助かった一部住民が大六天社を本村に奉じて移住、移住民は社の祭祀の為、社の周囲に民戸を構える「家津良八戸」という特異な村落形態をとっていました。

明治初期に洲崎神社に改称され、同37年(1904)横浜~金沢間道路改修で現在地に遷座。 同43年(1910)泥亀村鎮守日枝神社(大山昨命)と末社稲荷神社2社(倉稲魂命 太田命)を、大正3年(1914)姫小島の十二天社(磐長比売命)を其々合祀しました。
祭神「誉田別命」 相殿「大山昨命 倉稲魂命 太田命 磐長比売命 建速須佐之男命」を安置。

三叉路南面の社頭、社号標と文化9年(1812)造立「明神鳥居」。
金沢区洲崎・須崎神社社頭
















石扁額「洲崎神社」。
金沢区洲崎・須崎神社鳥居扁額















銅葺の手水社には、奉獻と刻まれた大正10年(1921)奉納の手水鉢。
洲崎神社手水舎
















照明を乗せた一対の常夜燈、右に御神木「銀杏」、社殿右に文化14年(1817)境内に遷座された境内社天王社(建速須佐之男命)。
金沢区洲崎・須崎神社境内
















右面「一天罒海安徳参上」と刻まれ、文化10年(1813)秋葉山講中が奉納した一対の常夜燈。
金沢区洲崎・須崎神社所常夜燈





















子・玉取りの狛犬は昭和57年(1982)建立。
金沢区洲崎・須崎神社狛犬吽金沢区洲崎・須崎神社狛犬阿
天保9年(1838)再建の社殿は権現造り、拝殿は明治42年(1909)増築されています。
洲崎神社拝殿
















拝殿扁額。
金沢区洲崎・須崎神社拝殿扁額














向拝「波と龍」。
金沢区洲崎・須崎神社拝殿向拝













左木鼻「唐獅子」、持ち送り「波 亀(降)」。 手挟は「牡丹 鳥」が施されています
金沢区洲崎・須崎神社拝殿左木鼻














右木鼻「唐獅子」、持ち送り「波 亀(昇)」。
金沢区洲崎・須崎神社拝殿木鼻右













西側からの社殿(拝殿・幣殿・本殿)。
金沢区洲崎・須崎神社社殿
















左(西)側に雄・雌獅子を安置する獅子殿。
神奈川区洲崎・洲崎神社獅子殿















獅子の由来説明板
「雄・雌獅子頭は、嘉永2年(1849)彫刻師・後藤利兵衛の制作。 太平洋戦争(昭和16年)以前は、祭礼(7月)で4人の若衆が町内厄除けで担いで廻りました。 又、流行病(麻疹)の子供が、獅子の口に噛まれるようにすると早く平癒することから、守り神として尊信されていました」
洲崎神社・獅子由来説明板















北西からの境内。
金沢区洲崎・須崎神社北西からの境内
















往時、洲崎一帯はこんな長閑な風景だったんですね。。。
瀬戸橋付近の松並木、塩田、筏流しを描いた金沢八景「洲崎晴嵐」。
尓き者へ流 すさ紀の里能 朝けふ里 波るゝ阿らし尓 た天類市人」(にきはへる すさきのさとの あさけふり はるるあらしに たてるいちびと)
金沢八景「洲崎晴嵐」



















横浜市金沢区洲崎・龍華寺

知足山龍華寺(洲崎町9-31)は、源頼朝が瀬戸神社を創建の際、文覚上人と共に六浦山中に建てた別当・浄願寺が創始とされます。後、戦乱や大火で罹災しましたが、明応8年(1499)融弁上人が兼帯していた光徳寺と合併して現社名に号して建立されました。
江戸期に寺領5石を拝領、真言宗御室派の壇林所として栄えました。又、本堂の再興に尽力し、江戸期から180余年を掛け泥亀新田を開拓した永島家菩提寺でもある。
行基作の本尊「大日如来」を安置、東国八十八ヵ所霊場第78番札所です。

平潟湾が広がる江戸名所図会「町屋村 龍華寺」
江戸名所図会「町屋村 龍華寺」1江戸名所図会「町屋村 龍華寺」2
社頭
金沢区洲崎町・龍華寺社頭
















山門に掲げられた山号扁額「知足山」。
金沢区・龍華寺山門扁額













右手に大永4年(1524)造立の本尊「木造地蔵菩薩坐像」(市有形文化財)を安置する地蔵堂。
金沢区洲崎町・龍華寺、地蔵堂
















御室桜や河津桜は終わりましたが、熱海桜が満開です。
金沢区須崎町・龍華寺の熱海桜
















山門潜ると、鎌倉地域特有の上下帯を持つ鎌倉末期の天文10年(1541)鋳造「梵鐘」(県文化財)、右に不動明王を安置する不動堂。
江戸名所図会には「太田道灌不動尊の霊像を寄付して武道延長を祈()・・・」とあることから、道灌によって不動明王が奉納されたことが分かります。
洲崎金沢区須崎町・龍華寺鐘楼と不動堂
















堂前に宝珠の阿吽、吽形は尾や前足が破損した小さな狛犬(建立年代不明)がいます。
金沢区洲崎・龍華寺の不動明王狛犬













不動堂左側に石塔群が祀られています。
右から角柱型の天保7年(1836)角柱型青面金剛 天保10年(1839)庚申塔 舟形の6臂合掌青面金剛 天明元年(1781)笠付青面金剛 弘化2年(1845)青面金剛童子(文字塔) 享保7年(1722)宝珠を載せた笠付青面金剛。 
金沢区洲崎町・龍華寺石塔群
















元は社前辺りに建立されたのでしょうか、弘法大師をのせ、「左 保土ヶ谷道」と刻まれた道標。
金沢区洲崎・龍華寺不動堂横の道標

























78番札所の大師堂。
金沢区須崎町・龍華寺の大師堂
















境内には、松や季節毎に彩りを添える梅 桜 牡丹 紫陽花が植えられていますが、江戸期より有名だった旧永島邸の牡丹園の様に、牡丹の寺としても知られています。
正面に茅葺入母屋造りの鐘楼。
金沢区須崎町・龍華寺鐘楼と本堂
















鐘楼の蟇股「菊」。
金沢区洲崎町・龍華寺鐘楼の蟇股
















手水舎。
金沢区須崎町・龍華寺手水舎
















苔生した龍口。
金沢区洲崎町・龍華寺手水鉢龍口
















本堂。  明応期に合併した光徳寺の山号「龍燈山」に因むのでしょうか、本堂前に龍燈の松があります。
龍華寺本堂
















御朱印  お心遣いに感謝です。
龍華寺御朱印龍華寺お供物
次は東側の洲崎神社を参拝します。






横浜市金沢区瀬戸・瀬戸神社と金沢八景。

金沢八景駅から徒歩5分程、金沢八景「瀬戸秋月」で知られる瀬戸神社(瀬戸18-14)を参拝しました。

往時、社の北側一帯(現・泥亀町 釡利谷町)辺りまで海が入り込み、“瀬戸の入海”と呼ばれていました。瀬戸橋が架橋される以前、人々が干満時に急流が渦巻く瀬戸の難所に、海神を祀ったのが当社の起源です。
治承4年(1180)鎌倉幕府を開いた源頼朝は、東北方の守りとして崇敬する伊豆三島明神(三嶋大社)をこの霊地に勧請、社殿を造営したのが当社の創始です。
 以後、瀬戸三嶋大名神と呼ばれて人々の尊信を集め、執権 関東管領 小田原北条氏等歴代名将に篤く崇敬されてきました。
鎌倉幕府以後も歴代権力者による保護を受け、慶長5年(1600)徳川家から社領100石を賜りました。 後、領主はもとより江戸八景の中心として、江戸にまで信仰者が広まり、多くの文人墨客も訪れています。

祭神「大山祇命」、相殿神「素盞鳴尊 菅原道真公」他11神を安置。

江戸名所図会「瀬戸明神社」。
「瀬戸橋より一町斗西の方道より右側尓あり」と記され、境内は今も往時の様相を偲ばせます。
江戸名所図会「瀬戸明神社」1江戸名所図会・瀬戸明神社2
平潟湾に向く横須賀街道(R16)沿いの社頭。 社号標「瀬戸神社」(内閣総理大臣中曽根康弘氏揮毫)、寛政12年(1800)造営「明神鳥居」、文化3年(1800)建立「灯籠(常夜燈)」。
金沢区瀬戸・瀬戸神社社頭
















左の灯籠台石正面「牡丹・鬣を銜える左向きの唐獅子」。
金沢区瀬戸・瀬戸神社社頭の石灯籠台石彫刻左













右の台石正面「牡丹・右向きの唐獅子」。
金沢区瀬戸・瀬戸神社社頭の灯籠台石右













万治年間(1658~61)郡代官・八木次郎右衛門は、当社西側の円通寺客殿の裏山に東照大権現を祀り、六浦藩主・米倉保教が石燈籠を寄進しています。 明治初期に廃寺となった別当・円通寺は、同11年(1878)当社に合祀され、石燈籠も境内に移されました。
鳥居を潜ると、左右に東照大権現から移された形・大きさの違う石燈籠があります、左:竿に節があり、右:大型で、火袋や竿に陽刻、基礎に蓮陽刻、2基共蓮弁入りです。
金沢区瀬戸・瀬戸神社灯籠右金沢区瀬戸・瀬戸神社灯籠左
左(東側)灯籠の裏面に刻まれた「東照宮御寶前」。石質からか、右灯籠の文字は読み取れません。
瀬戸神社・石灯籠裏面(東照大権現)















洗心と刻まれた手水鉢の手水舎。
金沢区瀬戸・瀬戸神社手水舎















昭和53年(1978)建立「狛犬」。
金沢区瀬戸・瀬戸神社狛犬吽金沢区瀬戸・瀬戸神社狛犬阿
高欄を巡らした入母屋造り拝殿。
神奈川区瀬戸・瀬戸神社拝殿



















向拝の蟇股「鳥・蘇鉄」。 
金沢区瀬戸・瀬戸神社拝殿向拝蟇股
















木鼻「唐獅子」。
金沢区瀬戸・瀬戸神社拝殿向拝木鼻吽金沢区瀬戸・瀬戸神社拝殿木鼻阿
左右の手挟「牡丹」。
金沢区瀬戸・瀬戸神社拝殿彫刻










内閣総理大臣小泉純一郎氏揮毫の扁額「瀬戸神社」。
金沢区瀬戸・瀬戸神社拝殿半額














拝殿両脇壇に安置されている木造守門神坐像(市有形文化財)。
南北朝~鎌倉末期作の武官の服装の檜材・寄木造り。
金沢区瀬戸・瀬戸神社拝殿内の木造守門神坐像吽形金沢区瀬戸・瀬戸神社拝殿内の木造守門神坐像阿形
鎌倉期作の木造舞楽面(国文化財)。 頭上の龍が身を低く構える「陵王」、頭が小さく鼻先が丸い「抜頭」は、建保7年(1219)運慶の奉納。
金沢区・瀬戸神社・陵王金沢区瀬戸神社・抜頭
権現造りの社殿は寛政12年(1800)造営。
玉垣で囲う本殿は千木・鰹木を設けた流造り、鬼瓦に神紋「三ツ巴紋」を配しています。
神奈川区瀬戸・瀬戸神社社殿
















後背地(北東~西)にスダジィ クスノキ等の照葉樹林、断崖になる社殿裏手にタブノキ クスノキ シロダモ等の常緑広葉樹、尾根状にケヤキ、谷部にスダジィが密生した社叢は、樹齢100年・樹高10~15mの古木も多く市天然記念物に指定されています。
断崖を背に社殿左右に境内社が祀られています。
社殿左側、西から稲荷神社(倉稲魂命)3社、青麻社(大己貴命 少名彦命)、武官坐像、青麻社と同じ社殿の右末社(大雷神 高龗神)。
金沢区瀬戸・瀬戸神社境内社
















稲荷社(石祠)の神使「狐」。
神奈川区瀬戸・瀬戸神社境内社稲荷社駒狐













社殿右側に左末社(石長比売命 木花咲耶比売命)、後方の崖をくり抜いたやぐらに稲荷社。
金沢区瀬戸・瀬戸神社境内社左末社
















更に右手に祖霊社、イヌマキ2本、ケヤキの高木が横一列に並びます。
金沢区瀬戸・瀬戸神社境内右のイヌマキ・欅
















南側に、延宝8年(1680)の台風で倒れた金沢八木の一つ「蛇混柏(じゃびゃくしん)」。
禅寺に植えられることが多く、赤褐色の樹皮が縦に薄く裂けるように長く剥がれるのが特徴。
金沢区瀬戸・瀬戸神社の蛇混柏
















平潟湾 琵琶島弁天社 瀬戸橋等が描かれた貞亨2年(1685)刊行 新編鎌倉志「瀬戸()」。
社殿右に横たわるように描かれている蛇混柏、江戸名所図会では、右上の断崖の松の下に描かれ、「本社の右の傍尓(そばに)あり (これ)も延宝八年庚申八月六日の暴風()吹倒され多りとて今地上尓横多はりきあり 其樹長大尓て竜蛇の起伏()る可如し 金澤八木と称春るを可く其の一なり」と記されている。
新編鎌倉志巻之八「瀬戸圖」






























社務所南側に御神木、傍らに力石や歌碑2基・石塔があります。
歌碑「田鶴  花を雪 遊喜越半那嘉登 見ま可婦も 梅さく古路農 そ羅免奈梨希利  七十七翁弘賢書」 (花をゆき ゆきをはなかと みまかふも うめさくころの そらめなりけり)
歌碑「萬路  蓑むしや 志ら雲消帝 梅能花」(みのむしや しらくもきえて うめのはな」
神奈川区瀬戸・瀬戸神社御神木カヤ
















推定樹齢千年・樹高26mの御神木「大カヤ」(市天然記念物)。
神奈川区瀬戸・瀬戸神社御神木




























風光明媚な平潟湾に突き出た境内社・琵琶島神社(琵琶島弁天社)。
金沢区瀬戸・琵琶島弁天社全景1















江戸名所図会「瀬戸辨財天」
江戸名所図会「瀬戸弁財天」




























琵琶島神社(琵琶島弁天社)参道口、松並木が続きます。
この辺りからの風景は、金沢八景「瀬戸秋月」として描かれています。
瀬戸弁財天参道口
















参道口には、かって弁財天の神橋の東下にあった福石(服石)があります。
頼朝が百日の日参の際、平潟湾の汀で禊の時に衣服を掛けた石で、江戸期、石の前で物を拾うと福を授かるとして信仰されました。  金沢四石の一つに数えられています。
金沢区瀬戸・琵琶島弁天社の福石
















境内には、冠水で立ち枯れたまま腐蝕しない300年を経た柏槙が多く見られます
参道の松並木の間にも多くありますが、神橋を渡ると円形の島の周囲に独特の風景を醸しています。
金沢区瀬戸・枇杷島神社境内の枯木「柏槙」














頼朝が瀬戸明神社を創建時、北条政子は都久夫須麻(つくぶすま)神社(近江・竹生島)から弁財天(市杵島姫命)を勧請、祭神の立姿と頼朝の立身出世に因み立身弁財天(室町期作)として信仰を集めました。
又、島が琵琶に似た形から琵琶島弁財天とも呼ばれます。
鉄柵に囲われる流造りの社殿前には蘇鉄が植えられています。
神奈川区瀬戸・琵琶島弁天社
















社殿右に、佐羽淡斉「総宜楼の詩碑」。 江戸後期の商人で漢詩人:淡斉(佐羽吉右衛門)が、当地で友人と過ごした宴会の様子、瀬戸の風景を詠んだ詩が刻まれています。
文化5年(1808)瀬戸橋近くの料亭東屋の庭にあったもので、復元・移設されました。
琵琶島弁天社・佐羽淡斉の詩碑
















新編鎌倉誌「瀬戸圖」にもあるように、往時、神社前の海中の二つの島を橋で結んでいました。
見下ろすと、名称が島の形に因みことが納得です(市地域史跡)
神奈川区瀬田・瀬戸弁天社全景
















往時、平潟湾は鎌倉幕府の重要な港で、六浦湊と呼ばれました。 
嘉元3年(1305)、北条貞顕が瀬戸~洲崎間に架橋した瀬戸橋。
金沢区・瀬戸橋
















瀬戸橋東詰めに茶店東屋、橋を行き交う人々等賑わう様子を描いた江戸名所図会「瀬戸橋」。
江戸名所図会「瀬戸橋」1江戸名所図会瀬戸橋2江戸名所図会「瀬戸橋」3江戸名所図会瀬戸橋4
下流には、照手姫が松葉いぶし(煙)に遭ったと伝わる照手姫伝説に因む姫小島跡。
金沢区瀬戸・姫小島跡
















広重の金澤八景「瀬戸秋月」。
「野島山に懸る仲秋の名月、瀬戸橋」が描かれ、江戸期の歌人・京極高門の和歌が添えられている。
 「よ流なミの 瀬戸能秋風 小夜更けて 千里能越き尓 すめ累月可け
(よるなみの せとのあきかぜ さよふけて せんりのおきに すめるつきかけ)
金沢八景「瀬戸秋月」














金沢シーサイドライン下から野島を望む。
シーサイドライン下から野島
















御朱印。
金沢区瀬戸・瀬戸神社御朱印




















東京都杉並区上荻・荻窪八幡神社

荻窪八幡神社(上荻4-19-2)は、荻窪駅の北西1.4Kに鎮座する旧上荻窪村の鎮守です。

康平年間(889~98)創建と伝わる古社で、永承6年(1051)河内源氏・源頼義が前9年の役に赴く際、宿陣して戦勝祈願をし、康平5年(1062)凱旋では神恩に感謝して社を修め、武将を駐め永く祀らせたと伝わります。
後の文明9年(1477)、関東官僚・武蔵領主上杉定政家臣・長尾影春と石神井城主・豊島泰経らの反逆で、江戸城主・太田道灌は定政の命で石神井城攻略をするにあたり、当社に戦勝祈願した際、献植した槇が御神木となっています。
武人の祭神「応神天皇」を安置。

境内への入口は3ヵ所(北・東・南)あり、青梅街道沿いに社号標「八幡神社」、扁額「八幡神社」を掲げた北鳥居(明神鳥居)。
杉並区・荻窪八幡神社北側(青梅街道側)社頭














長い鬣の一部が胸まで流れている安政2年(1855)建立「狛犬」。
杉並区上荻・荻窪八幡神社狛犬吽杉並区・荻窪八幡神社狛犬阿
親の左足の上に頭を乗せた吽形子犬。
杉並区・荻窪八幡神社狛犬吽の子犬














親に視線を向ける阿形子犬。
杉並区・荻窪八幡神社狛犬阿の子犬














逆光の為、斜め撮りの吽形(左)は尾の位置が低く、左右対称に2個づつの巻毛になっています。一方、阿形は左右の巻毛数、高さが違っています。
荻窪八幡神社狛犬吽バック荻窪八幡神社狛犬阿バック
大正から昭和初期、かっての北多摩郡一帯は雑木に交じった栗園が広がっていました。  明治20年(1887)旧井荻村・市川喜兵衛が発見した自生の栗苗は、郡に因み「豊多摩早生」と命名され、害虫に強い抵抗力や8月中旬から収穫できることから高値で取引され、各地で栽培されるようになりました。
喧騒から解き放たれた静寂な境内は2600坪、参道沿い左(東)に「豊多摩早生」が混じる社叢が広がります。
荻窪八幡神社・豊多摩早生














参道はここで東鳥居から西の社殿へと延びる参道(丁字路)に突き当り、左に折れた左に道案内と火伏の神、猿田彦神社(祭神:猿田彦大神)、秋葉神社(祭神火之迦具土神)が祀られています。
荻窪八幡神社境内社・














左側(東)に開運・商売繁盛・縁結び・災厄等に御霊験あらたかな御嶽神社(太詔戸神) 稲荷神社(保食神) 須賀神社(素佐之男神) 琴平神社(大物主命) 祓戸神社(瀬織浅姫神 速開津姫神)5社。
荻窪八幡神社境内社5社














社殿脇には子・玉・巻物・鍵を持つ大小の神使「狐」。
荻窪八幡神社境内社狛狐吽荻窪八幡神社境内社狛狐阿
東側に、東日本大震災後に再造営された扁額「八幡神社」を掲げた一ノ鳥居。
杉並区井荻・荻窪八幡神社東鳥居














一ノ鳥居の左(南)に町内の神輿庫、 南鳥居があります。
写真は、北鳥居の参道(左側)と交わる一ノ鳥居(東鳥居)から西(社殿)へ延びる参道を南鳥居の手前から撮っています。
荻窪八幡神社南鳥居














参道途中に二ノ鳥居、傍らには東日本大震災で倒壊した一ノ鳥居台石から造られた注連縄が掛る祓門が並びます。
荻窪八幡神社さんの鳥居・祓門









 




手水舎。
荻窪八幡神社手水舎














右に昭和初期築、同43年増築の神楽殿、西側に神輿殿があります。
荻窪八幡神社・神楽殿














昭和43年(1968)造営の廻廊を巡らした「神門」、古樹の高木が社殿や廻廊を取り囲むように林立しています。
荻窪八幡神社・神門1















拝殿前の左(南)、玉垣内に“百尺の高野槇”と称えられる樹齢550年の御神木「道灌槇」(区天然記念物)、かっては二幹でしたが、昭和初期の暴風雨で一幹となっています。
荻窪八幡神社拝殿・道灌槇














昭和11年(1936)造営の総檜造り・入母屋造りの拝殿、明治28年(1895)造営の総檜造り本殿は拝見することは出来ませんでした。
荻窪八幡神社拝殿














蟇股(植物)。
荻窪八幡神社拝殿の蟇股














神紋「三ツ巴紋」や植物の蟇股、扁額「八幡神社」。
荻窪八幡神社拝殿蟇股・扁額
















例祭日(9月)には、社宝の「狛犬」(区有形文化財)や勝海舟直筆の一対の大幟(3年毎)が拝見出来るそうです。
御朱印。
荻窪八幡神社御朱印




















埼玉県さいたま市のマンホール

平成13年(2001)5/1、浦和市 与野市 大宮市が合併してさいたま市が発足しました。
※市章は、さいたま市の頭文字[S]を囲むように、和が広がり融和していくことを表現しています。
埼玉県さいたま市・合流



六辻で撮影。




合流管(汚水・雨水)には中心に「市章」、
上部に市の木「ケヤキ」、左下に市の花「サクラソウ」、右下に市の花木「サクラ」がデザインされています。








埼玉県さいたま市・カラー合流



宮町、モール街で撮影。






カラー合流管。








埼玉県さいたま市・汚水



さいたま新都心駅付近で撮影。





汚水用。









埼玉県さいたま市・雨水



常盤3丁目で撮影。





 中心に「市章」、上に市の花木「サクラ」、
左下に市の花「サクラソウ」、右下に市の木「ケヤキ」がデザインされた雨水用。







埼玉県さいたま市・カラー空気弁


六辻、国道17号線沿いで撮影。






「市章」、「Saitama」文字入りのサッカーボールをデザインしたカラー空気弁。









埼玉県さいたま市・カラー排水栓



上木崎で撮影。






カラー排水栓。








埼玉県さいたま市・カラー消火栓



白旗4丁目で撮影。





カラー消火栓。








埼玉県さいたま市・カラー仕切弁100


仲町で撮影。





カラー仕切弁(№100)







埼玉県さいたま市・カラー仕切弁150


仲町、県164号歩道で撮影。





カラー仕切弁(№150)







埼玉県さいたま市・ccbox



下町で撮影。





中心に「市章」、「C.C..BOX」文字のコンクリート製電線共同溝。






埼玉県さいたま市・消(英字)


吉敷町、県52号歩道で撮影。


英字の消火栓。
「YOU ARE NOW IN SAITAMA NEW URBAN CENYER. THIS CITY IS PLANNED AND CONSTRUCTED TO SHARE THE NATION'S CAPITAL FUNCTIONS. OPENED IN MAY 2000. WEACCOMMODATE A WIDE RANGE OF CENTRAL OVERNMENT FUNCTIONS, CULTURAL FACILITIES, BUSINESS, AN SHOPPING.」







埼玉県さいたま市・カラー消



吉敷町、大宮消防署氷川参道出張所前で撮影。





「はしご車」、容量「40」㎥、「さいたま市消防局」文字入りのカラー防火水槽。








埼玉県さいたま市・県南水道消火栓


下町で撮影。





昭和9年(1934)5町村(浦和市 大宮町 与野町 三橋村 六辻村)による埼玉県南水道企業団(さいたま市水道局)の消化栓。







埼玉県さいたま市県南水道・排











県南水道の排水栓。








埼玉県県南水道・汚水


大宮駅付近で撮影。






県南水道の仕切弁。














横浜市鶴見区市場東中町・熊野神社

熊野神社(東中町9-21)は京浜急行・八丁畷駅の南西700m、旧東海道沿いに鎮座。
平安期の弘仁年中(810~24)、紀州熊野詣での流行と共に成立した熊野別当・尊慶により勧請され、熊野耕地八本松に熊野権現が創建されました。
江戸期、鶴見川の舟運と共に漁業も盛んとなり繁栄、人々は熊野権現の御加護として社殿を改築しましたが、六郷川や暴れ川だった鶴見川等の度々の洪水で社殿は大破しています。明和元年(1764)五穀豊穣を願い本殿改築、鳥居が建立されましたが、後、関東大震災で被害を被りました。
明治5年(1872)新橋~横浜(現・桜木町駅)間の東海道本線敷設工事の為、八幡神社(境内社)が祀られていた現在地に遷座されました。
祭神「国常立尊 伊邪奈岐命 伊邪奈美命」を安置、厄除け 開運招福 夫婦和合 縁結びに御霊験あらたかな旧市場村の鎮守です。

三叉路の角地、東南東向きに社号標。
鶴見区市場東中町・熊野神社社頭

















境内には古木の大樹が無く、見通しが良すぎてちょっと寂しく感じます。
鶴見区市場東中町・熊野神社境内















鳥居を潜ると、慶應3年(1867)建立「石燈籠」一対。 倒壊防止用鉄枠に塗られたペンキが台石にたれていて、江戸末期の貴重な灯籠だけに残念です。
左側の台石正面「唐獅子」。
熊野神社・石灯籠台石の獅子(左)















右側の台石正面「龍」。
熊野神社・石灯籠台石の獅子(右)













旧東海道玉垣沿いに富士登山者等による改元記念碑等の石碑、奥に横浜市立市場小学校発祥の趾碑があります。
鶴見区市場東中町・熊野神社石碑群















左側に当時の井戸でしょうか、
鶴見区市場東中町・熊野神社井戸跡















手水舎手前に明咊(和)元年(1764)本殿改築の際、造立された「鳥居の柱」が残されています。
熊野神社手水舎















自然石の歌碑(内容は読めません)。
鶴見区市場東中町・熊野神社・石碑















天保8年(1837)造立「手水鉢」、刻まれた字は何と読むのでしょうか?
鶴見区市場東中町・熊野神社手水鉢















慶應2年(1866)建立「狛犬」。
熊野神社・狛犬吽熊野神社・狛犬阿
吽形の台石正面「岩山で前足で押えた毬の長い紐を銜えた下向き唐獅子、牡丹、滝(右上)」。
熊野神社・狛犬吽台石
















阿形台石「上を見上げる唐獅子、牡丹」
熊野神社・狛犬阿台石
















吽形(左)の尾は中央で左右に分かれて巻気に、真中部分が半分に分かれ背中に這い上るように張り付いています、一方、逆光で分かりづらいですが、阿形は左側の尾端が背中に張り付き、右側尾端は右上の巻気に絡まるように流れています。
熊野神社吽形熊野神社阿形
権現造りの社殿は大正8年(1919)造営、高欄を巡らした入母屋造りの拝殿。
そして拝殿の後方左右に天水桶(コンクリート製)が置かれています。
鶴見区市場東仲町・熊野神社社殿















出雲大社宮司千家尊統揮毫による扁額「熊野神社」。
熊野神社拝殿扁額















小壁や向拝の蟇股。
熊野神社拝殿小壁蟇股











高欄付本殿は鰹木・千木を載せた入母屋造り、幣殿と本殿は玉垣で囲われ、背面中央に門が付けられています。
鶴見区市場東中町・熊野神社本殿















境内左(西)に境内社4社が祀られています。手前から神明社(天照大御神) 八幡神社(応神天皇) 大鳥神社(日本武尊) 正面岩山に五社大神社(大山昨命 品陀別命 須佐之男命 速玉男命)。
鶴見区市場東中町・熊野神社境内社4社















右に境内社稲荷神社(倉稲魂命)。
境内には径80㎝位の数個の切株があり、その中に御神木があったのかもしれません。
鶴見区市場東中町・熊野神社境内社稲荷神社





















我が家は春爛漫

2月頃から一斉に開花が始まった我が家のシンビジュームです。
ここ数年、1鉢あたりの花芽が1~2本と少ないのがちょっぴり寂しいですが、切花にしてもしばらくは楽しめるのがこの花の魅力の一つです。
半月後位には大型シンビが咲く予定です。
44.jpg


















埼玉県与野市(現・さいたま市)のマンホール

平成13年(2001)5月1日、与野市は浦和市 大宮市と合併してさいたま市となりました。
埼玉県与野市(さいたま市)・雨水



大宮区吉敷町で撮影。




雨水用には「YONO CITY」、市の木「サクラ」、
「川」に泳ぐ2匹の「コイ」がデザインされています。

※川は、旧市内を南北に流れる鴻沼川をイメージしてデザインされたようです。






与野市・汚水


上落合、国17号で撮影。







汚水用。








埼玉県与野市(現・さいたま市)・カラー汚水



上落合、埼京線:北与野駅西口付近で撮影。







カラー汚水用。








埼玉県与野市(さいたま市)・下水JIS


上落合、国17号で撮影。






「市章」入り雨水親子蓋のJIS規格雨水用。









成田街道⑤佐倉市・旧堀田邸、酒々井町本佐倉・本佐倉城址を訪ねて

下総佐倉藩の最後の藩主・6代堀田正倫(まさとも)(佐倉市鏑木町)の旧邸宅(国重要文化財)を訪ねました。
さくら庭園から旧堀田邸



さくら庭園からの主屋全景。












正倫は、廃藩置県(明治4年)で藩知事を免職後、大名華族として深川佐賀町に住んでいましたが、明治20年(1887)旧領地への居住が認められたことから、後半生を過ごす為に鹿島台地縁辺部の高台の土地約2万坪を購入、同23年主屋が竣工、家族と共に移住しました。
主屋は、玄関棟 座敷棟 居間棟 書斎棟 台所棟 湯殿の6棟で構成された木造平屋1部2階の建物でしたが、台所棟は解体され5棟となり、敷地も当時の1/3になっています。
東京の大工棟梁・西村市右衛門による施行で、上質なつば造り・火打ち貫等の伝統的和風建築工法とボルト・ナットを使用した西洋建築工法を取り入れた和風木造邸宅です。
(※通常非公開の居間棟2階・書斎棟・門番所は、年に数回公開されます)

北側に一間1戸・渋墨塗りの冠木門。
旧堀田邸冠木門
冠木門右に門番所(国重要文化財)、畳敷き2部屋 雪隠 竈があります。
旧堀田邸・門番所

















西側に竈。
旧堀田邸・門番所の竈















左に2階建土蔵(国重要文化財)。 重厚な土蔵造りではなく、1階正面に庇を付けた下見板張り・一部漆喰塗木造蔵です。
旧堀田邸・土蔵

















東側(左)に「化粧の間・湯殿」、右に「玄関棟」、南側に「座敷棟」、西側に「居間棟」、「書斎棟」を配した全体間取り図。
旧堀田邸図面

















玄関。
鏑木町・旧堀田邸玄関前

















雲の懸魚と蟇股。
旧堀田邸玄関蟇股

















格式高い式台玄関、奥に応接の間。
旧堀田邸・玄関

















玄関右手の「中の口」に竣工(明治23年)当時の壁掛けフック。 植物の葉の部分をネジ止め、上下に幹を伸ばし、上の幹先に白っぽい七宝焼(又はガラス)が付けられた斬新なデザイン。
旧堀田邸中の口の帽子掛け















後、六畳の間に付けられた壁掛けフック、中の口のデザインとは全く違いますが、緩やかな曲線のアンティークデザインです。
旧堀田邸次の間の帽子掛け

















化粧の間への渡り廊下。 玄関棟の壁は黄大津ですが、渡り廊下と化粧の間の壁は桃山を使用。
旧堀田邸・化粧の間への渡り廊下

















化粧の間の北側に、明治44年(1911)東宮殿下(大正天皇)行幸で増築された湯殿。
旧堀田邸・化粧の間・湯殿

















応接の間の南廊下には、磨き長丸太(7間)の梁が使用されています。
旧堀田家・畳廊下の柱


















応接の間から。
応接の間から庭

















玄関棟右側の家令 家従 家丁詰所は、堀田家を支えた人々の執務室です。家従 家令詰所には「佐倉堀田家別邸 茶室 梅園」、「佐倉堀田家別邸」を描いた日本博覧図、堀田氏略系図、ジオラマ等が展示されています。
幕末期(左)・明治5年の堀田氏の写真。 
堀田正倫
















家紋「立木瓜」の据瓦。
堀田家家紋入り鬼瓦

















明治30年(1897)当地方の埴産興業の為、屋敷に隣接して堀田家農事試験場(農業研究機関)を創設、又、佐倉中学校(現佐倉高校)へ多額の寄付をする等、農業発展と学問奨励に多大な尽力をされています。
堀田家農事試験場事務所と前庭(展示写真より)。
堀田家農事試験場事務所と前庭
















南面の庭に張りだすように配置された座敷棟は、主屋の中でも最高級の材料が使用され、公的な接客の際に利用されました。
基礎石は、大きさをそろえた自然石6個を並べ、7個目に横ずれを防ぐ為の切り込みを入れた一回り大きい石(⇒)を配置しています。
客座敷入側(北側・渡り廊下から左)の基礎石。
座敷棟・北側の基礎石1
















畳廊下と渡り廊下の壁は浅黄大津(ブルー)を使用。 座敷棟の入口欄間は、客座敷の欄間と同じ菱形になっています。
旧堀田邸・座敷棟入側入口

















入側の南西側に祠堂。
旧堀田邸・座敷棟西側の祠堂

















客座敷は冷気対策の為でしょうか、二重床張りで床の間(1間半)と違い棚(1間)の本床の間を備え、欄間は入側と同じ二本の組子菱です。
旧堀田邸・客座敷

















2羽が松の枝を銜え、様々な方向に飛ぶ3羽の鶴を1組に描かれた襖、壁色(黄大津)としっくり調和しています。
旧堀田邸・応接の間と六畳の間の襖のツルの柄
















襖。
旧堀田邸・応接の間と六畳の間の襖のツルの柄1
















家紋「立木瓜」の上下左右に「4匹の蝶」、周りに「植物」を配した引き手。
旧堀田邸・座敷棟襖の取手
















玄関棟 化粧の間 座敷棟の照明。 玄関棟 座敷棟の釘隠し「桐」
旧堀田邸・応接の間照明旧堀田邸・玄関棟と座敷棟と畳廊下の釘隠し(桐)
客座敷・廊下からのさくら庭園。
客座敷から庭

















西側に家族が過ごす居間棟や書斎棟が配置されています。 
欄間は灰に埋れていた箱根の神代杉を使用し、互い違いに麻の葉を浮き出した和紙を貼り、春蘭の透かし彫が施されています。
次の間から居間

















居間。
旧堀田邸・居間棟の居間

















床脇の天袋と地袋には、跡見学園創設者で画家・跡見花蹊による梅が描かれています。
居間棟・居間の跡見花蹊画

















(写真左から)地袋の引き手、 次の間・居間・役女詰所の釘隠し「橘」、 寝の間の釘隠し「楓」。
旧堀田邸居間棟・居間引手旧堀田邸居間棟・釘隠し(橘)旧堀田邸居間棟・根の間釘隠し(楓)
居間北側の役女詰所、奥に寝の間。
役女詰所から寝の間

















二重床板の寝の間。  押入れの襖に柄違いの更紗を用いたアジアンテイストな雰囲気、壁の色(大坂土)としっくりと調和して落ち着いた和室になっています。
居間棟・寝の間

















寝の間の日本更紗張りと引き手(七宝)。   役女詰所の日本更紗と引き手(草花2種と蝶2匹)。
寝の間の襖役女詰所の襖
役女詰所北側の廊下から裏庭、右建物は佐倉厚生園病院。
役女詰所の廊下から北側の庭

















次の間東側の急階段を上り居間棟2階へ。
居間棟2階







上の間の床柱に「唐松」、落としかけには「黒柿」が使われ、釘隠しは「橘」です。
旧堀田邸居間棟2階上の間から次の間

















上の間・次の間の襖の引き手(鹿・)。次の間の襖は、1階役女詰所と同じ引き手(草花2種と蝶2匹)。
旧堀田邸居間棟2階上の間襖引き手旧堀田邸居間棟2階次の間襖引手
上の間・床脇の天袋引き手(鳥形内に草花・白↑)。 次の間の地袋の引き手(草花・)。
居間棟2階上の間の床脇天袋引き手居間棟2階北側の次の間襖引き手
欄間彫刻(植物)。
旧堀田邸居間棟2階の上の間と次の間の欄間

















南面の廊下手摺り。
居間棟2階南廊下手すり

















廊下から書斎棟。
旧堀田邸・居間棟2階から書斎棟

















西南に位置する書斎棟は次の間・上の間からなり、居間棟と共に私的な接客等に使われました。
渡り廊下は「杉の網代」天井。
書斎棟の渡り廊下



















渡り廊下が東に折れた右に水屋、次の間の北側に4枚引き戸の天袋があります。
書斎棟・次の間北側戸棚

















4枚其々に、嘉永~明治期の作者と思われる「花鳥画」が貼られています。
左2枚
旧堀田邸・次の間北側の天袋左1旧堀田邸・書斎棟次の間北側の天袋日本画左2
右2枚。 
旧堀田邸・次の間北側天袋の日本画左3旧掘田邸・書斎棟次の間北側天袋の日本画左4
天袋の引き手(七宝)。
書斎棟・次の間天袋の引き手













上の間は床の間はありませんが、床脇の様に2枚引き戸に其々4枚の(花・鳥画)を貼った天袋、細竹を用いた違い棚、暖色系ストライプ柄の飾り棚が置かれています。
書斎棟・上の間 (2)

















上の間・北西に左右対称の彫刻(三重塔・龍)を施した飾り棚。
書斎棟・次の間西北角の飾り戸棚


















上の間・南西角に幾何学模様を細竹で表した小窓と飾り棚(左写真)。 向かい(南東)には仏壇として使われていたのでしょうか、籤網代編の地袋、上に火灯窓で縁取りし、内部に段違い棚を設けています。
書斎棟上の間南西の飾り棚書斎棟上の間南東角の地袋
繊細な籤網代編に合わせ、取っ手も同系色の房が付けられています。
上の間・南東角の

















インド更紗(布)を張った上の間の天井。 壁(大坂土・黄)や襖の色彩と調和して、違和感を全く感じさせません。
旧堀田邸・書斎棟上の間天井

















上の間の襖の「四季の草花」の引き手。
書斎棟・襖の引き手1書斉棟・襖の引き手4
草花の引き手。
書斉棟・襖の引き手2書斉棟・襖の引き手3
次の間の襖の引き手。        違い棚の上の天袋の引き手。 
書斎棟・上の間の床脇引手書斎棟・上の間天袋引き手
上の間の飾り棚の取っ手。
書斎棟・床脇戸棚の取っ手
















上の間・北側廊下の奥に雪隠があり、引き戸を開けると左に水屋、便器は竣工当時のものです。
書斎棟・北側廊下と雪隠















正面に小便器。
書斎棟・雪隠小便器


















右側面に製作者名「橋本三治郎」と刻まれた大便器、 現在の和式用大便器とはかなり形状も違います。
書斎棟・雪隠の大便器

















庭園は、前田家の庭師だった巣鴨の庭師・伊藤彦右衛門により造られました。 主屋周囲を垣で囲い、外側に起伏を生かした広い芝生地を中心に、松を主流として四季折々に彩りを添える樹木が植えられています。(県文化財名勝・日本歴史庭園100選)
湯殿側に句碑「下総に この花在りて 初ざくら
さくら庭園から化粧の間

















庭園からの客座敷。
さくら庭園から客座敷

















垣は書斎棟手前から網代垣になります。
さくら庭園から書斎棟

















西側に主屋の竣工時に建立された切妻屋根の茅門。 往時、門の北側に梅園が広がり、奥に茶室がありました。
旧堀田邸萱門

















正倫揮毫による扁額「弧山餘韻」、左に谿堂、落款が見られる。
旧堀田邸萱門扁額


















扉上部には、廊下(居間棟2階)や網代垣と同じ虫籠窓に似た窓が付けられ、柱にはハの字の彫込み模様が入れられています。
旧堀田邸萱門扉
















雪見灯篭や置石等を配した庭園。
さくら庭園



















本佐倉城址(国史跡)は、戦国期(1469~86)に酒々井町本佐倉と佐倉市大佐倉に跨る将門山に、千葉輔胤が築いた連郭式平山城です。
東西約700m・南北約800m、約35haの規模を有し、城を中心として4つの城下町(佐倉 酒々井 鹿島 浜宿)があり、千葉宗家本拠地として120余年・9代にわたり政治経済の中心地として栄えました。


今回は南側正面の妙見社脇から上り、奥ノ山 城山 Ⅳ郭から倉跡を歩いてみました。
成田街道の時には夕方で気が付きませんでしたが、妙見社への上り口左側に弁財天堂が祀られています。
本佐倉城址・南上り口左の弁才天堂

















元禄6年(1693)造立「6臂弁財天坐像」
本佐倉城址南側左の弁財天





















案内図
本佐倉城址案内図

















正面に奥ノ山に祀られていた千葉氏の守護神を祀る妙見社、鳥居左から竹林に覆われた細い道を上ります。
本佐倉城址・奥ノ山への上り口

















山沿いに廻りこむように上ると奥ノ山、南西側に妙見址碑。 かってここには上り口に鎮座する妙見社が祀られていました。
本佐倉城址・奥ノ山妙見跡

















東側からの奥ノ山、 右の大樹に妙見社跡碑、左に奥ノ山碑が立つ。
本佐倉城址・奥ノ山

















奥の山から城山の南側中間地点辺りに門が築かれていた城山虎口(こぐち)です。
本佐倉城址・城山虎口図
















左に折れながら上ると門跡になり、後方に堀の遺構が残されています。
本佐倉城址・城山虎口

















門跡先で道は左右に分れ、右は城山、左は木橋へ。
本佐倉城址・城山門跡図
















上図のように右は城山へ、入口には門が築かれ土塁奥に堀がありました。左は木橋方面です。
本佐倉城址・城山門跡

















城山主殿跡。
本佐倉城址・城山主殿跡

















北東の景色、やや東寄りが酒々井駅方面です。
本佐倉城址・城山主殿から北東の景色

















分岐点を左(西)へ進むと、奥ノ山と城山との大堀に架けられていた木橋跡。
本佐倉城址・城山北西の木橋跡

















先端から下を覗くと、千尋の谷を思わせる深い空堀が見えます。
本佐倉城址・城山北西の木橋

















木橋が架橋されていた大堀。
本佐倉城址・空堀

















木橋跡の下を抜け。
本佐倉城址・大堀切

















大堀先の木戸跡図。
本佐倉城址・木戸跡

















Ⅳ郭虎口の通路は大堀切手前で左に折れます。高低差2mの平坦な坂上に木戸が設けられていました。
本佐倉城址・木橋先の木戸跡


















奥ノ山の北側が倉跡です。
本佐倉城址・倉跡



























静岡県三島市のマンホール

静岡県三島市・カラー汚水


中央町で撮影。






市の花「ミシマザクラ」がデザインされたカラー汚水用。








静岡県三島市・汚水


中央町で撮影。







同デザイン汚水用。








静岡県三島市・汚水JIS


大社町・県22号で撮影。






中心に「市章」のJIS規格汚水用(格子)。









静岡県三島市・汚水JIS親子


北田町・県21号で撮影。






「市章」、「汚水」文字入りJIS規格親子汚水用(亀甲)。








静岡県三島市・汚水枡


中央町・県22号歩道で撮影。






市の花「ミシマザクラ」の汚水枡。









静岡県三島市・汚水枡1


北田町で撮影。





「市章」入り汚水枡。









静岡県三島市・カラー消火栓


中央町で撮影。






「市章」、「梯子車」デザインのカラー消火栓。









静岡県三島市・制水弁


北田町で撮影。






「市章」入り制水弁。







静岡県三島市・カラー制水弁1


北田町で撮影。





「市章」、「ドット模様」のカラー制水弁。








静岡県三島市・カラー制水弁


北田町で撮影。







「市章」、「ドット模様」のカラー制水弁。







静岡県三島市・止水栓


北田町で撮影。






「市章」、「水」マークの止水弁。











静岡県駿東郡清水町のマンホール

清水町の中心部を流れる柿田川(全長1.2k)は、柿田川公園の湧水に源を発する国内最短の河川です。町中心地域を北から南に流れ、堂庭で南東から西に横断する狩野川に合流します。
静岡県駿東郡清水町・汚水


堂庭で撮影。





汚水用には明治42年(1931)柿田川に架橋された石造アーチ橋「柿田橋」や「富士山」等柿田川風景がデザインれています。








静岡県駿東郡清水町・カラー汚


堂庭で撮影。





カラー汚水用。










静岡県駿東郡清水町・カラー汚水展示用


町役場に展示。



















台東区上野公園・上野大仏と五條天神社・花園稲荷神社

上野公園・都立美術館近くの寒桜が満開でした。
上野恩賜公園寒桜





























花色は河津桜とソメイヨシノの中間色位でしょうか、常緑樹の中に一際映えています。
恩賜公園寒桜















上野精養軒の北西にある大仏山に、旧上野東照宮薬師堂の御本尊「薬師三尊」を安置する寛永寺パゴダ祈願塔があり、上り口に地蔵菩薩立像・萬霊供養塔が祀られています。
上野大仏山・バゴダ様式祈願塔
















横には顔だけの上野大仏が祀られ、横に受験生たちの合格祈願絵馬が奉納されています。
上野大仏と大仏絵馬
















上野大仏がレリーフとなった経緯は次のような歴史があります。
寛永8年(1631)越後村上藩主・堀直寄が戦死者を弔う為、この丘に漆喰釈迦如来坐像を建立したのが始まりです。
後、地震による倒壊で、万治年間(1658~61)青銅製座像が鋳造され、元禄11年(1698)大仏殿が造営されました。然し天保12年(1841)の火災で損傷。
2年後、越後藩9代堀直央が祖縁の上野大仏を再建しましたが、関東大震災で頭部が落下。 昭和15年(1940)第二次世界大戦で顔面以外は軍需金属資源で供出され、顔面は寛永寺に安置されていました。
昭和42年(1967)旧跡に大仏パゴダが建てられ、関東大震災50回忌に当たる5年後、顔面がレリーフとして安置されました。
上野大仏




関東大震災以前の上野大仏。












左側の寛永寺・時の鐘と並んでいたかっての大仏殿。 
上野大仏殿

















多くの苦難と長い時を経て。。。緑青に覆われた端正な御顔立ちは慈愛に満ちています。
上野大仏
















南西100mにある五條天神社へ。
五條天神社(上野公園4-17)は、日本武尊が東征の折、上野忍が丘に大己貴命・少彦名命を奉ったのが創始とされます。後、天神山や瀬川屋敷等社地を転々とし、昭和3年(1928)当地に遷座されました。
祭神「大己貴命 少彦名命」 相殿「菅原道真公」(下谷天満宮と称され寛永18年(1641)に合祀)」を安置しています。

境内への入口は東側、南側、西側からの3ヵ所あります。 東参道口の鳥居(明神鳥居)には、境内社の扁額「花園稲荷神社」が掲げられ、朱鳥居脇に「五條天神社 花園稲荷神社参道」と刻まれた石碑があります。
上野・花園稲荷神社鳥居
















髪型や顎髭が個性的、宝暦3年(1753)建立の狛犬(吽形右面)
花園稲荷神社狛犬吽正面





















阿形(右)は鼻先や顔一部が欠損しています。
花園稲荷神社狛犬吽花園稲荷神社狛犬阿
後ろから見る髪型も見事、鬣は少なく真直ぐ背中に張り付いています。阿吽では尾の長さ(高さ)の違い、吽形(左)は全体に条が刻まれ、阿形は中心を窪ませ、左右に何本化の条が刻まれている。 石工は不明です。
上野恩賜公園・花園神社吽バック花園神社阿バック
阿形左面。
花園稲荷神社狛犬阿正面






















西へ向かう参道は、9基の朱鳥居の先で下り、更に5基の朱鳥居、石鳥居が並びます。
花園神社朱の鳥居
















そして南側に五條天神社一ノ鳥居(靖国鳥居)、右は境内社・花園稲荷神社の南参道口です。
上野公園・五條天神社社頭
















参道口右手に正岡子規歌碑「みちのくへ 涼みに行くや 下駄はいて 秋風や 旅の浮世の 果知らず
花園神社鳥居脇の正岡子規句碑















鳥居の傍らで梅がほころび始めていました。
上野公園・五条神社参道口の梅
















鳥居を潜ると狛犬(建立年不明)、子取りの阿形、玉取りの吽形で阿吽が逆位置になっています。
上野公園・五條天神社狛犬吽上野公園・五條天神社狛犬阿
石段を下ると境内左(北)に社務所、千貫神輿を安置する神輿殿、奥に西鳥居が見えます。
上野公園・五條天神社社務所神輿殿
















大神輿。
五條天神社神輿





























右に江戸期、上野の繁栄祈願で山内各門に祀られた祠の一つ、七福神を祀る七福社。
五條天神社・七福社
















正面に南向きの社殿。
五條天神社境内
















右に八脚・宝形造りの手水舎。
五條天神社手水舎全景

















屋根には今にも羽ばたきそうな鳳凰、寒桜と緑青が際立ちます。
五條天神社手水舎屋根の鳳凰

















天井中心にブドウ模様の筒状(欅材)の彫刻。
五條天神社手水舎天井の彫り物















蓮の花を模した大きな円形手水鉢。
五條天神社手水鉢
















神紋「粟稲紋」が入った賽銭箱、節分祭の支度が整えられた拝殿。
五條天神社拝殿
















拝殿前の狛犬(ブロンズ・年代不明)。
五條天神社拝殿前狛犬吽五條天神社拝殿前狛犬阿
社殿は昭和3年(1928)造営、千木・鰹木を設けた本殿は流造り。
五條天神社社殿
















花園稲荷神社は創建年代不詳ですが、寛永初期(1624~)僧天海が寛永寺を創建の折、忍ケ丘の狐が住み處を失ったのを憐み、当地に造った一洞上に忍岡稲荷を祀ったのが創始とされ、石窟上に祀られたことから穴稲荷と称されました。 承応3年(1654)、天海弟子・晃海が再建して上野山の守護神としました。 後、荒廃しましたが、明治6年(1873)再興された際、現社名に改称、昭和3年五條天神社がこの地に遷座の折、南面に社殿が造営されました。
祭神「倉稲魂命」を安置、縁結び 商売繁昌の神として信仰されています。

五條天神社一ノ鳥居の右手が、境内社・花園稲荷神社の南参道口です。
境内社花園稲荷・西参道一の鳥居
















鳥居を潜ると右上に、龍の彫刻を周囲に施した大正15年奉納の五條天神社の大額。
五條天神社奉納額


















下部中央部分に珠を持つ龍、割烹店名等が記された木札が納められている。
五條天神社参道沿い奉納扁額

























更に珠を持つ龍の左に、大額の製作者・額師末廣直正 拝書田村百泉の名が朱文字で記した木札彫刻。
五條天神社参道沿い奉納扁額下部の彫刻













その先に大正5年(1916)造立の二ノ鳥居。
花園稲荷神社西参道二の鳥居
















右に忍岡稲荷旧跡の穴稲荷(内部撮影禁止)。   洞内の左に折れた突き当りに社殿が祀られています。
五條天神社・花園稲荷参道途中の穴稲荷
















巻物・玉を銜えた神使狐。
穴稲荷・狛狐吽穴稲荷・狛狐阿
左に五條天神社・花園稲荷神社例祭等で使用される額堂。
五條天神社・額堂
















伊藤博文揮毫の扁額「神徳惟馨(しんとくこれかぐわし)」が掲げられています。
五條天神社額堂の奉納額(伊藤博文書)
















「魂心清漱盥」と刻まれ、腕組みをした唐人が四隅を担ぐ手水鉢。
花園稲荷神社手水鉢
















下ってきた東参道は手水舎の先で合流します。
東参道出口
















昭和30年(1955)落語家・2代目三遊亭円歌(田中利助)により奉納された玉取り・子取りの神使「狐」。
花園稲荷神社拝殿前狛狐吽花園稲荷神社拝殿前狛狐阿
社殿は昭和初期造営、入母屋造りの拝殿。
花園稲荷神社拝殿
















扁額「花園稲荷神社」。
花園稲荷神社拝殿扁額














拝殿内の神使は「木製の狐」。
花園稲荷神社拝殿内
















手水舎前で左石段を下ると五條天神社境内に。
花園稲荷神社から五條天神社境内
















一枚々に奉納者名が刻まれた玉垣。
五條天神社・境内の玉垣
















境内西側に神楽殿。
五條天神社・神楽殿
















神楽殿に掲げられた扁額「舞殿」。
」五條天神社・神楽殿扁額「舞殿













うららかな日差しにほころび始めた白梅。
五條天神社・神楽殿近くの梅
















額堂扁額と同じ「神徳 惟馨」文字入りの西鳥居(靖国鳥居)。
五條天神社西鳥居
















御朱印:五條天神社 花園稲荷神社  
五條天神社御朱印上野公園・花園稲荷神社御朱印










オフタートルチュニック

毛足のある厚地ニットで作ったチュニックです。 
店頭では、この生地を使ったフード付きコーディガンをよく見かけます。
ワンピース

カラー:ベージュ
着 丈:84cm 5分袖。






















タートルネックのインナーとパンツを合わせてみました。
ロールカラーワンピースと組み合わせ





























成田街道④酒々井宿~寺台交差点

起点:前回③の酒々井宿中宿・八坂神社まで戻り進みます。
[行程]
酒々井駅(7:30)…・酒々井宿(八坂神社~地蔵堂~島田長右衛門家~勝蔵院~酒の井碑~麻賀多神社~酒々井駅古松碑)~下り松三山碑~築山~中川石仏・中川三叉路道標・トヶ崎三叉路道標・上岩橋大谷津道標~上岩橋追分不動道標~大坂・大坂観音堂~伊篠の松並木跡~金比羅神社・不動塚~一本松交差点・一本松跡碑~不動尊旧跡~権現山~薬師堂~三橋鷹女像~表参道~新勝寺~東参道~寺台宿(永興寺・小野忠明親子墓・保目神社・寺台城址)~根木名川~国51号・寺台交差点(14:20)。

酒々井宿]は、天正19年(1591)酒々井村に千葉氏の本佐倉城の城下町を移し再編した宿駅で、その際に一里塚から麻賀多神社間(約750m)に、江戸側から上宿 仲宿 下宿 横町の町並みが区画されました。
幕府直轄の野馬会所があり、印旛沼の水運と共に物資輸送の集散地として繁栄、成田詣や芝山不動尊詣の宿場として賑いました。

「印旛郡酒々井町」(酒々井)
往時、八坂神社の手前には街道両側に榎が植えられた一里塚が築かれていました。
上宿と中宿の境に鎮座する酒々井宿の鎮守「八坂神社」。
酒々井町本佐倉・八坂神社














先の右丁字路奥に「延命山地蔵院跡」の地蔵堂
千葉氏所縁の寺で、代々藩主が野馬役人や参勤の休憩所としていました。
酒々井町本佐倉・地蔵堂














地蔵菩薩立像
酒々井町本佐倉・地蔵堂の地蔵菩薩














中宿と下宿の境になる酒々井町役場入口交差点手前右に、江戸期に野馬御用を勤めた「島田長右衛門家 島田政五郎家」(町有形文化財)。 
牧士頭を勤めていた長右衛門家(写真左側)は 明治7年(1874)御用を辞し、呉服・太物・足袋小間物問屋を開業、政五郎家は明治前期に分家し、灯油製造業をしていました。
町屋造りの現建物は、明治10~20年(1877~87)頃建築されています。
酒々井町本佐倉・島田長右衛門・政五郎家














左側の本家・長右衛門家は、出桁造りの店舗兼住居の左に店蔵と問屋場。 右の分家・政五郎家は店舗兼住居の右に油蔵棟が描かれている。 建物敷地裏には、幕府の牧場「佐倉七牧」を管理する野馬会所と馬の取引を行う野馬払い場がありました。(日本博覧図より)
仲町・島田長右衛門家











酒々井町役場入口交差点(丁字路)から右筋は多古街道への分岐点です。
往時、分岐点左に道標と高札場が置かれ、江戸中期、多古藩主が酒々井宿を経て江戸への参勤に使用しました。
酒々井町役場入口交差点(多古街道分岐点)














丁字路左には、大正8年建立「酒々井町道路元標」があります。
酒々井町本佐倉・酒々井町役場入口交差点の道路元標














すぐ先の左丁字路奥に江戸期、宿の中心として繁昌した勝蔵院
本尊「木造不動明王坐像」を安置する本堂は、元禄年間(1688~703)改築され、境内に大師堂、石仏石塔群が祀られている。
※境内の様子はこちらを。
酒々井町・勝蔵院本堂















250m北側、円福院神宮寺の境内南に、十七夜塔 如意輪観音菩薩 梵字を刻んだ板碑等石仏石塔群が祀られている。 
酒の井碑前・円福院神宮寺境内の供養碑














境内には、梵字とキリークが刻まれた室町前期の板碑で、地名に因む「酒の井碑」、左に「伝説酒の井碑」があります。
古来より、この地は水量も豊富な湧水の井が多く、出水と呼ばれていました。鎌倉期、当地を訪れた僧の説話「孝子酒泉」から、鎮守麻賀多神社の神酒を造る神宮寺の井戸が酒泉とされるなど、酒の井伝説は「孝子酒泉・地名由来・伝承碑」の三説から成り立ちます。

その一つ「孝子酒泉」伝説では「酒好きの年老いた父の為、孝行息子は一生懸命働いて毎日酒を買い飲ませていました。
ある時、酒代の工面が出来ず家路へと歩いていると、井戸から酒の香りが。井戸水を汲み上げ、飲んでみるとなんとお酒だったのです。
以来、毎日井戸から酌んだ酒で父を喜ばせました。 “酒が湧く井戸”の噂は世間に広がりましたが、他の人が飲むと唯の井戸水だったことから、人々は父を思う息子の気持ちが天に通じたと褒め讃え、いつしか酒々井村と呼ばれる様になりました」(印旛郡誌より)
酒々井町・酒の井碑














復元の酒の井
酒の井モニュメント














酒々井の鎮守・麻賀多神社は、天喜年間(1053~58)頃に酒々井村の成立と共に鎮座したと伝わる古社。
街道沿いに面した社頭や境内には、長い時代を経た大樹が深い杜を形成しています。
酒々井宿・麻賀多神社社頭














主祭神「和久産巣日神」を安置、境内には愛宕神社 水神社 古峰神社 御嶽神社等10社が合祀されています。
酒々井宿・麻賀多神社拝殿














酒々井小学校の向かい、酒々井町学校給食センターの南側に高さ2.8m「酒々井駅古松碑」(町名勝)。
往時、ここには千葉氏城下町の名残を留めた樹齢7~800年・樹高33mの古松「八抱えの松」があり、根元には妙見が祀られ、御神木として大切にされてきました。
天保年中(1830~43)の落雷、明治2年(1869)の台風で枯れ、翌年、古松を惜しむ村人達により碑が建立されました。
佐倉藩大参事・平野重久撰文、書学教師・平林辰協書による碑文は、「古松の事蹟・地名に因む酒泉、古井の碑由来・本佐倉城時代の酒々井町繁栄の様子」を偲んだ銘文が刻まれている。
酒々井町・酒々井駅小松碑














「酒々井驛妙見社傍老松 俗ふ肥前坂八抱松と云」と書かれた成田名所図会「八抱の松」
本佐倉城の時代、一帯は千葉氏の家臣達の屋敷が立ち並び、向かいの酒々井小学校のプール付近は「肥前屋敷」、その前から根古屋方面への急坂は「肥前坂」と呼ばれています。
酒々井町・八抱の松














酒々井小学校の300m先辺りから酒々井駅までは「下り松」と呼ばれる長く緩やかな下り坂です。
往時、狭く曲がりくねった坂で、街道両側に枝張の古木の松や木々が茂っていました。追はぎ 首つり 化け物の噂等で夜の一人歩きは物騒でしたが、印旛沼が望める場所に来ると旅人はホットしたと伝わっています。
酒々井町・下り松














坂途中に「下り松三山碑」(文政10年建立「出羽三山参拝記念碑」、文政8年建立「青面金剛」、馬頭観世音菩薩)。
下り松・下り三山碑















宗吾入口交差点は、江戸前期、税軽減を直訴した義民:旧公津村(成田市)名主・木内惣五郎(佐倉惣五郎)を祀る東勝寺(宗吾霊堂)への分岐点です。
酒々井町・宗吾入口交差点(県137)















交差点を横断した左に、通称「桜山」と呼ばれ酒々井町随一の眺望を誇る旧中川村・木内常右衛門邸跡の築庭「築山」(上写真左)。 
明治天皇は明治14・15年にかけ三里塚行幸の折、木内邸で休憩されたことから、の北側に昭和3年建立「明治天皇御駐蹕記念碑」があります。
又、築山の下には、正面「東 成田山 宗吾社道」と刻まれた明治32年(1899)建立「丸万講道標」がありましたが、現在は伊篠大日に移されている(後述)。
酒々井町・築山















(中川)
下り松が終わる先の交差点を右折すると成田線酒々井駅、左折すると京成線・酒々井駅に至ります。
街道は左折して20m先の三叉路を右へ。
酒々井町・下り松先の三叉路














中川三叉路に突き当る手前、火の見櫓左に四国八十八ヵ所霊場第65番札所・由霊山三角寺(四国)を勧請した大師堂、堂内には弘法大師坐像(空海)を安置。
酒々井町中川丁字路手前、中川石仏














火の見櫓の右に「中川石仏」(地蔵菩薩立像7基)。
酒々井町中川・中川石仏















中川三叉路に道標2基が並びます。
左側は江戸期建立「岩名道蜀山人道標」、佐倉城・街道から2k北の岩名不動尊への道標、正面「ニ王ミち」と刻まれている。
右側は明治44年(1911)木内儀之助が建立した「成田道中川苗代場道標」、正面「此方 酒々井停車場道」、右面「此方 成田宗吾道」、後面「此方 内郷道」と刻まれている。
この三叉路を右折します。
中川三叉路・道標2基















(上岩橋)
250m先、トヶ崎三叉路の正面に「上岩橋岩崎道標」。
正面「宗吾安喰道 成田佐原道」、左面「酒々井停車場 佐倉佐原道」、右面「酒々井停車場 佐原千葉道」、後面「上岩橋青年分団木内常松」と刻まれ、上岩崎青年分団が明治30年以降に建立。 
この三叉路は、成田山道、江戸・利根川筋からの物資輸送拠点で栄えた柏木河岸を経て龍正院(滑河観音)への追分で、かっては不動尊を載せた道標がありましたが、現在は北北東250mのふれあい公園に移されています(後述)。
ここを右折します。
酒々井町中川・トヶ崎三叉路の道標















50m先のY字路に、上岩橋青年分団が建立した板碑型「上岩崎大谷津道標」。 
富里市七栄と成田市三里塚への分岐点で、正面「← 成田佐原 佐原千葉 →」、後面「七栄三里塚道」、左面「上岩橋青年分団鈴木金兵エ」と刻まれている。 ここを右へ、すぐ国51号に合流して左折。
酒々井町中川・y字路道標














250m先で左丁字路へ、住宅地のふれあい公園に延享3年(1746)建立「上岩橋追分不動道標」(町文化財)。
トヶ崎三叉路から移された道標(前述)で、上部に不動尊を載せ、正面「従是右 成田山道 所願成就所」、左面「左方可し通り なめ川みち」と刻まれている。
※「可し通り」=旧上岩橋村と旧柏木村(酒々井宿の助郷村)の境の水防土堤の下に設けられた柏木河岸、物資輸送の拠点として栄えました。
酒々井町上岩橋ふれあい公園・不動道標














国道を進み、先の信号交差点(押しボタン式)左の電柱脇に、寛政2年(1790)建立「大崎坂下道標」。
正面「南さくら・・道 奉納仁王尊・・・木村十右衛門」、右面「東なりた道」、左面「建立年代」が刻まれている。
この交差点から右の旧道(大坂)へ。
酒々井町大崎台・大崎坂下道標














旧道は150m先で大きく左に回り込み、左の山裾にもたれるように明治27年(1894)建立「上岩橋萩山岩田長兵衛道標」。
正面「是・・・成田山 信集講社内岩田長兵衛麦里・町」、左面「宗吾道 迄 壱里 上岩橋」、右面「酒々井 迄 三拾町 上岩橋村」、後面に建立年代が刻まれ、岩田長兵衛が街道沿いに5基建立した1本です。
酒々井町上岩橋・岩田長兵衛道標














ここからは孟宗竹林に覆われた趣ある上りの「大坂」。
酒々井町上岩橋・大阪














坂途中の左段上に、江戸期、中馬により祀られたと伝わる大崎馬頭観音堂
上岩橋大崎台・大崎馬頭観音堂














境内には大小の祠が並び、石段正面の祠に馬の奉納絵馬
上岩崎・大崎馬頭観音堂の扁額














境内には石祠や馬頭観世音7基が祀られ、その横に欠損した天保11年(1840)建立「上岩橋萩山句碑」(左側)があります。
「成田山へ一里二十三町 あゝ楽ケりな 御利益尓け・・帰・」と刻まれた酒々井町唯一の句碑道標です。
酒々井町上岩崎・大阪観音堂の句碑道標















(伊篠)
坂上で国51号に最接近した左に「伊篠の松並木跡碑」(標柱)、正面「手差し 宗吾道」と刻まれた「宗吾道伊篠向山道標」」が並ぶ。
昭和40年代までは、ここから800mに渡り「杢之進並木」と呼ばれた松並木が現存していましたが、現在は数本のみとなっています。
昭和43年に県史跡、59年に町史跡でしたが、現在は史跡となっています。
酒々井町上岩橋・伊篠の松並木跡














「伊篠の松並木」(説明板より)。
伊篠の松並木(写真)














先の並木跡左に3基の「成田山護摩木山供養碑」、大樹右に下り松・築山の下に建立されていた「丸万講道標」(前述)があります。
伊篠の松並木、成田山護摩木山供養碑と丸万講道標














明治32年(1899)建立「丸万講道標」。
正面「東 成田山 宗吾社道」、右面「西 酒々井 佐くら道」、左面「左 しすゐ 停車場道」、後面「元禄元年起立丸万講 明治32年3月建立」と刻まれている。
現在、松は数本ですが、松ぽっくりは沢山落ちていて、こんなに開いて大きいのを見付けました。(長さ約9㎝・幅7cm位)伊篠の松並木・丸万講道標伊篠の松並木の松ぽっくり






先で旧道が大きく左カーブする左にも大きな「成田山永代護摩木山供養碑」があります。国51号に合流して80m先で左前方の旧道へ。
下り坂の左に「奉納成田山護摩木山供養碑」(左)、中仙道鴻巣宿萬屋清兵衛が建立した「不動尊碑」が並びます。
酒々井町伊篠・成田山道標他














田園地帯に祀られている文政4年(1821)造立「地蔵菩薩立像」。
酒々井町伊篠・地蔵菩薩立像














「成田市」(並木町~飯田町)
公津の杜入口交差点手前で成田市へ。
国51・公津の杜入口交差点手前の成田市標識














先の三叉路は右へ、100m先の右の細い旧道を下り成田山発祥地へ向かいます。
成田市並木町の旧道














成田線踏切手前左に海上交通の守り神金比羅神社
成田市並木町・金比羅神社














境内南側に「不動塚」、横に「不動塚之碑」。
成田山新勝寺は、天慶2年(939)寛朝僧正が朱雀天皇の密勅を受け、高尾山神護寺から奉じた空海作「不動明王像」と共に東国へ下り、当地(公津ケ原)で平将門の乱鎮圧の不動護摩の儀式を行ったことに始ります。 
平定後の永禄9年(1566)、成田村十七軒党の名主が不動明王像を背負い、遷座して仮堂を建立した所が不動塚周辺とされ、成田山の発祥地とされています。
残念ながら不動塚に安置されていた「石造不動明王像」は、境内の工事中でどこかに移されていました。
成田市並木町・不動塚
















神社前を左(西)へ進み、並木坂上交差点で街道(国409)に復帰。国道51号に合流して向かいの旧道へ進みます。
右に「和算家飯嶋武雄墓碑」。
12歳で和算の奥儀を極めた武雄(通称・武左衛門/雅号・桃逎家)は、後、江戸の私塾で算法を教授。失明で帰国後は、近郷を巡廻しながら口授で算法を教え、千人を超す門下生を育てました。
和算家飯嶋武雄墓














一本松跡交差点(三叉路)の左筋は、義民・佐藤惣五郎を祀る宗吾霊堂(東勝寺)への分岐点です。
成田市・一本松交差点














往時、この辺りまで松並木が続いていたと云います。
分岐点左には往時を偲ばせる若木の松、「一本松跡碑」、左には側面に「宗吾霊神道」と刻まれた安政5年(1858)造立「六臂合掌馬頭観世音」。
一本松跡碑















(不動ヶ岡)
成田線を渡り、次いで阿利耶橋(陸橋)で京成線を跨ぐと、左に「不動尊旧跡
安政5年(1858)成田山本堂(現・釈迦堂)完成の折、不動塚からは遠いことから仮安置所を設けて、入仏供養行列が出発した所です。現在でもその故事に因み、祇園祭(毎年7月)の御神輿・御稚児行列は、当地からの出発が習わしとなっている。
境内には延命地蔵菩薩立像、弘法大師3体を安置した堂、道祖神堂、奉納永代護摩木山碑等が祀られています。
不動ヶ岡・不動尊旧跡














成田市勤労会館手前で左に下る成宗電車軌道跡への分岐点に大師堂
弘法大師像を安置した四国八十八ヵ所第29番札所の国分寺(高知県南国市・摩尼山国分寺)で、祠には御詠歌が記されている
国を分け 宝を積みて 建つ寺の 末の世までの 利益のこせり
成田市不動ヶ岡・大師堂














(花咲町)
賑やかな花咲町通り、成田駅はすぐ先です。
花咲町・成田駅前














成田線・成田駅。
成田線・成田駅成田線・成田駅スタンプ1成田線・成田駅スタンプ2









昔、成田駅周辺は松や杉等が生茂る山林で、成田駅東口の北側の広場は、湯殿山権現社が祀られていたことに因み権現山と云われています。
境内には、東向きに湯殿山権現社(右)と花咲愛宕神社(左)が祀られ、江戸後期の画家・渡辺崋山の板碑(権現社の左側) 馬頭観世音 庚申塔 青面金剛等の石塔群が多数あります。
成田山新勝寺の祇園祭(7月)の初日の夜は、御輿が権現社を御旅所として一泊、翌朝には駅前で山車と屋台の総踊りが行われます。
成田駅前・権現山














権現山南側に明治44年(1911)造立「宝篋印塔」。
成田市・権現山の宝篋印塔

























古い建物と新しい建物が交り合う表参道を進むと、北に大きく曲がる上町の町並み
成田市上町の町並み














表参道が北東に向きを変える三叉路左高台に、明暦元年(1655)成田山の本堂として創建された薬師堂、水戸光圀公の参拝や、成田屋(市川家)に縁の深い御堂です。
薬師堂














表参道・上町通り入口に、生誕百年に際し建立された「三橋鷹女の像」(ブロンズ)。
田町出身の昭和の女流俳人で、昭和47年(1972)73才で永眠、生家近くの三橋家墓所に葬られました。
遺作「千の虫 鳴く一匹の 狂ひ鳴き
三橋鷹女像














成田山へ下る仲町の町並み。
仲町の町並み















下り坂左に旅館「梅屋」、ここで参道は大きく東に向きを変え、大黒屋旅館 大野屋旅館等の趣ある木造建物が続きます。
旅館梅屋














旅人の道中薬として親しまれてきた江戸初期創業の「一粒丸三橋薬局」、建物(土蔵造り2階建)は国登録有形文化財です。
入口に登録商標「下総成田山門前 總本家元祖三橋吉兵衛」、右に看板「成田山 ちどめ きりきずのくすり 血留明治散」、左に日除け暖簾が掛けられ、300年を経た老舗の歴史を感じさせます。
表参道・上町の三橋薬局














成田山総門(楼門・総欅造り)。   ※境内については以前に参拝したこちらを
新勝寺総門
















総門前に角・宝珠を載せた文化11年(1814)建立「狛犬」。
成田山総門前の狛犬吽成田山総門前の狛犬阿
(田町~成田)
表参道から先の三叉路を左折して東参道へ、最後の宿場「寺台宿」へ向かいます。
表参道から東参道へ分岐点














東参道が右に折れる左に旅館「はま屋」。
旅館浜屋















東参道は本町と田町の境で北(左丁字路)に向きを変え、人出も無くなり閑散としています。
田町の町並み。
寺台宿町並み














成田図書館先で更に左~右に曲がる左段上に水子供養地蔵尊
田町・水子地蔵尊














成田高校の東側の三叉路を左に、S字急カーブの坂上左の階段を上ります。
寺台宿・小野忠明墓上り口














永興寺の境外地に「小野治郎右衛門忠明・小野治郎右衛門忠常親子の墓」(県史跡)。
小野派一刀流の開祖で知られる戦国期~江戸初期の剣豪・忠明は、2代徳川秀忠公の剣術指南役を勤め、関ヶ原の戦いで活躍した上田七本槍の一人。元和3年(1617)武勳により、寺台地頭になり300石を賜りました。 子・忠常は3代家光公指南役を勤め、一刀流基本兵法書をまとめて一刀流を大成している。
左の五輪塔の台石には、忠明の没年・寛永5年(1628)、右の忠常は寛文5年(1665)と刻まれ、上の空輪から水輪までの各輪に「妙・法・蓮・華経」文字が正面に刻まれています。
永興寺境外地・お野忠明・忠常親子墓














(寺台)
寺台宿]は、成田山側から下宿 中宿 上宿で構成。鎮守保目神社や徳川家2・3代将軍付指南役・剣豪所縁の永興寺、千葉氏の居城とした寺台城址がある。

道を挟んだ東側、永興寺山門前の小堂に大日如来、南無延命地蔵菩薩像、庚申塔等石仏石塔群が祀られている。
寺台・永興寺入口の祠














曹洞宗永興寺は室町前期創建の古刹、本尊「地蔵菩薩」を安置。
成田市寺台・永興寺本堂














歩行者は無く、時折車だけが行き交う静かな街道。
寺台町並み














保目(ほうめ)村の鎮守「保目神社」、屋根付木製両部鳥居を潜ると、宝珠を載せた2対の常夜燈が奉納されている。 後方の山はこれから行く寺台城址です。
寺台・保目神社















御神宝として伝来した径17.5㎝青銅「御正体(本地仏)」(市有形文化財)。
この懸仏は、神仏習合の表現として平安~江戸期に鋳造され奉納されたもので、例祭(7月)では神輿に御正体が遷座して根木名川を渡御する「お浜下り」が行われます。
寺台・保目神社の懸仏















先の民家の細い路地から寺台城址へ。
寺台・寺台城址の上り口














千葉氏族臣・馬場氏代々が居城とした寺台城、天正18年(1590)馬場伊勢守勝正の代に秀吉の小田原攻めで滅び、後、家康公より海保甲斐守三吉が城を賜ったと伝わります。
本丸跡の東側には「寺台城主海保甲斐守遺趾碑」、寺台城址碑(標柱)、大樹の傍らに祠が祀られています。
寺台城址















眼下に根木名川、国道51号を望む。
寺台城址から














すぐ先の三叉路を右折、根木名川に架かる吾妻橋を渡ります。
寺台・根木名川手前














吾妻橋下からの根木名川(成田方面)。
富里市根木名に源を発し、利根川へと注ぐ延長16.2kの川、かって、橋上流側に寺台河岸の一つ・黒川河岸、橋の下流に山小河河岸、更に下流の関戸橋に山六河岸があり、江戸への水運に利用されていました。
成田市寺台・根木名川















寺台交差点(国51号)。
国51号・寺台交差点(終点)















帰りは同じ道を戻ります。 東参道から上り坂になる表参道へと、キョロキョロしながらのんびりと。。。。
成田山表参道(帰り)














京成成田駅で帰途に。
京成成田駅














今回④で成田街道は終了です。 最終回は歩行距離が短いので、前回③寄れなかった旧堀田邸(佐倉市鏑木町)と本佐倉城址(酒々井町本佐倉)へ立ち寄りました。旧堀田邸と本佐倉城址については次回(⑤)にUP致します。
2017・1・6(快晴)。




印旛郡酒々井町酒々井・勝蔵院

処宝山勝蔵院長現寺(酒々井127)は、成田線・酒々井駅の南西1.2k、旧成田街道(県137)酒々井宿・仲町と下宿の境に鎮座しています。
父忠昌の意志を受け継いだ藩主・戸田能登守忠真が、元禄12年(1699)北東700mの東台不動山(中央3丁目)にあった不動堂を移して社殿等を建立、2年後、越後高田に転封後は町民の管理の下、佐倉七牧の捕馬役人宿舎としても利用されました。 
文殊寺(本佐倉字五良)の下寺でしたが、天保期(1830~43)廃寺後に佐倉5カ寺の一つ・吉祥寺末・無住寺となっている。
本尊「木造不動明王坐像」を安置。

三叉路正面に仁王門。
酒々井町・勝蔵院仁王門
元禄12年(1699)建立「仁王像(金剛力士)」。 
酒々井町・勝蔵院仁王像吽酒々井町・勝蔵院仁王像阿
金剛力士の足元には共に悪霊侵入を見張る小さな狛犬がいます。  
高さ15㎝程ですが、吽形(右の上写真)は角があり台座正面に梵字が刻まれている。
酒々井町・勝蔵院の仁王像の狛犬吽酒々井町・勝蔵院仁王像の狛犬阿
江戸期、酒々井のお不動様として賑わった境内、2本の大樹が参道を挟むように聳えています。
酒々井町・勝蔵院境内
















宝珠を載せ、火袋の無い一対の「石燈籠」は、文化9年(1812)造立で奉納不動明王と刻まれている。
酒々井町・勝蔵院参道の石灯籠(奉納不動明王)


















文化元年(1804)造立「手水鉢」、正面には「奉納 御寶前」と江戸赤坂、酒々井町の奉納者名が刻まれています。
酒々井町・勝蔵院手水鉢















嘉永6年(1853)建立「狛犬」。
酒々井町・勝蔵院狛犬吽酒々井町・勝蔵院狛犬阿
阿形(右)は、特に尾の巻気部分に白カビが多く発生していますが、後姿は同じ様です。
酒々井町・勝蔵院狛犬吽バック酒々井町・勝蔵院狛犬阿バック
元禄12年(1699)造営、宝形造りの本堂(町有形文化財)は、元禄年間に改築されています。
酒々井町・勝蔵院本堂1

















山号の扁額「處寶山」は、藩主戸田能登守忠真による揮毫、蟇股は「梅・犬」。
酒々井町・勝蔵院本堂蟇股

















元禄12年(1699)造立、像高1.3mの本尊「木造不動明王坐像」(町有形文化財)。  
地元では、江戸の仏師が武田信玄像と不動明王像を同じ工房で作っていた際、取り違えて信玄の髪の毛を植えつけてしまい、このように恐ろしい顔となったと伝わっているそうです(風土記より)。
酒々井町・勝蔵院本尊「木造不動明王坐像」1



















高欄が廻らされた本堂。(北西から)
酒々井町・勝蔵院本堂北西方向
















南(左)側に大師堂、周りには灯籠や石塔石仏群が祀られています。
酒々井町・勝蔵院大師堂と石塔群
















堂内には右手に五鈷(法具)、左手に数珠を持ち椅子に座る3体の弘法大師(空海)像、遍路姿の立像が安置されています。
酒々井町・勝蔵院大師堂内
















大師堂の裏側の石塔群に、一際大きな宝暦6年(1756)建立「石塔」。2段の蓮座に乗り、4面に蓮の陽刻、竿にあたる部分に3文字はカビで読めませんが「…女除災與樂(よらく)」と刻まれている。
酒々井町・勝蔵院境内の石造群

































千葉県印旛郡栄町のマンホール

千葉県印旛郡栄町・汚水


安食台1丁目で撮影。




汚水用には町のキャラクター「龍夢(ドラム)」、左右に町の木「サザンカ」、下に「DORAMU」文字。

※ドラムは町民に夢・未来を与える意味が込められたキャラクターで、関東地方でも最古刹の一つ・龍角寺の竜伝説に因みます。






千葉県印旛郡栄町・カラー汚水


栄町役場(展示)で撮影。















千葉県印旛郡栄町・公共汚水


安食台1丁目で撮影。





中心に「町章」、JIS規格汚水用。
















謹賀新年

新春年賀





成田街道③ユーカリが丘駅~酒々井駅

ユーカリが丘駅が起点です。
[行程]
ユーカリが丘駅(7:15)~手繰川~手繰坂~妙覚寺・雷電為右衛門碑~実蔵院~臼井妙見社(星神社)~太田図書助資忠墓~古峯神社~円応寺~臼井城址~阿辰の碑~臼井宿(雷電為右衛門墓~天狗茶屋跡~中宿交差点~長源寺・道誉墓)~三叉路・道標~光勝寺~八丁坂~題目供養塔~角来八幡神社~角来馬頭観音~鹿島川~佐倉城址公園~佐倉城下(愛宕神社~海隣寺~旧平井家住宅~麻賀多神社~武家屋敷~山口家住宅~佐倉一里塚(駿河屋跡)~宗円寺(佐藤泰然墓)~甚大寺(堀田家墓所)~松林寺~佐倉順天堂記念館~青光寺~本佐倉城址~酒々井宿(大鷲神社~八坂神社~島田長右衛門・政五郎家)~酒々井駅(17:19)。

「佐倉市」(上座)
駅前から街道(R296)を進むと、右のセブンイレブン前の歩道に折れた成田山道標
佐倉市上座・成田山道標














後ろの上部を合わせると、正面「成田山 信集講社 岩田長兵衛門」、左面「大和田迄 〇〇元上坐新田」、右面「臼井迄 元上座新田」と刻まれている。
成田街道沿いに岩田長兵衛が建立した5基の道標の1つで、井野・茶店「林屋」(成田街道②)前に次ぎ2本目の道標となります。
上座・成田山道標














志津村は、明治22年(1889)上志津村 下志津村 井野村 井野町など8町村の合併で発足。
志津小学校への入口交差点右に志津村道路元標があり、当時はこの辺りが志津村の中心地だったようです。
上座・志津村道路原標














上座交差点の先、右段上に皇産霊神社石碑と共に出羽三山参拝記念碑の皇産霊神社
佐倉市上座・皇産霊神社














街道は田園地帯を緩やかに下ります。途中左に仁王像・大日如来を祀る手繰不動尊(右)、左に大師堂や明治・大正期建立の馬頭観世音群が祀られています。
佐倉市上座・馬頭観音碑群














川幅が狭く自然の土手場が残る手繰川、手繰橋で渡ります。
佐原市・手繰川














(臼井台)
渡り詰めで臼井台への上り口、左の旧道へ。
手繰橋詰めの分岐点(臼井台へ)














途中から更に急坂となる街道最大の難所・手繰坂
手繰坂














坂途中で右路地を下り妙覚寺へ。
臼井台・妙覚寺への下り坂














妙覚寺前に没後153回忌にあたる昭和53年建立、江戸期の大相撲力士「雷電為右衛門碑」。
高さ2.77mの顕彰碑には、等身大の化粧まわしの土俵入り姿、佐久間象山筆による「天下第一流 力士雷電之碑」と刻まれ、横に大きな手形があります。
臼井台・妙覚寺前の雷電碑














戻り、手繰坂を上ると丁字路正面に道標があります。
臼井台・手繰坂突き当り














正面「右成田ミち」、左面「西さくば道」(作場道)、右「江戸みち」と刻まれている文化3年(1806)建立「道標」。
臼井台・突き当り道標

















街道はこの丁字路を右折ですが、左へ。 本尊「不動明王」を安置する実蔵院建徳寺、山門前に如意輪観音等石仏群が祀られています。
臼井台・実蔵院














境内に「明倫中学跡碑」。
明治36年(1903)山口永隆住職は、農村の振興を担う後継者教育を目的とした明倫学校を創立、後に明倫中学となり、昭和17年までの40年間学校が置かれていました。
臼井台・実蔵院。明倫中学校跡碑















実蔵院前を右に進み、三ノ丸跡の臼井妙見社へ。
臼井六郎常康が築城の折、城内鬼門に創建したと伝わる社の一つ。  妙見とは北斗七星を神格化したもので、千葉氏一族は鎮護国家・除災寿福の妙見菩薩を守護神として信仰しました。
臼井氏滅亡後は臼井の守護社に、明治初期に現社名・星神社に改称され、祭神「天御中主命」を安置。
臼井台・臼井妙見社














妙見に因む一族の家紋「月 星」の社紋が付けられた拝殿鬼瓦
臼井台・臼井妙見社拝殿の鬼瓦(月星)














境内には樹齢250年以上の大樹「ムク」、傍らに臼井田町女人講中が建立した子安観音像を祀る子安堂、西側に羽黒山大神 月山大神 湯殿山大神等の出羽三山参拝記念碑等が奉納されています。
臼井台・臼井妙見社(星神社)境内














土塁跡の小路。
臼井台・星神社から太田図書墓への小路














三ノ丸土塁跡に「太田図書助資忠墓」。
文明10年(1478)師走、太田道灌は境根原の戦いで千葉孝胤軍勢に勝利。 翌年正月、太田図書助資忠(道灌の弟)と千葉自胤(武蔵千葉氏)軍勢が、臼井城に立て籠もる孝胤を打つべく城を包囲するも、城兵との激しい攻防戦で図書助資忠ら53名が討死している。 
墓は討死した場所に祀られています。
臼井台・大田図書助資忠墓














城址南側の山裾に古峯神社(左)と道祖神社、道を挟んだ向かいに秩父三十四番供養塔や子安観音塔等の石塔石仏群が祀られています。
臼井城址南側の古峯神社・道祖神社














城址公園東側上り口から臼井城址へ。
臼井城は千葉氏一族臼井六郎常康が当地に居を構え、興胤の代に城の基礎が造られました。常康から16代久胤までの450年間の居城でしたが、天正18年(1590)小田原落城で千葉氏と共に滅び、以後、酒井家次が3万石で入封、文禄3年(1593)の大火で灰燼と帰し、慶長9年(1604)家次の転封で廃藩・廃城されました。
15世紀(1501~)以降に築かれたと考えられる本丸 二ノ丸 空堀 土塁等の遺構が残されています。
臼井田・臼井城址公園東側上り口














城址からの景色は「名勝臼井八景」の一つに数えられている。 元禄期、夕映えの美しい城跡の峯で、久胤の祖孫が城主だった頃の祖先を偲び感慨深く詠んだ「城嶺夕照」は、臼井氏滅亡から100年後のことである。
いく夕べ 入日を峯に 送るらん むかしの遠く なれる古跡
城址から印旛沼を眺望。
臼井城址からの印旛沼














臼井城地形図。 Ⅱ郭の左側(西)が三ノ丸。
臼井城址地形図











本丸跡(Ⅰ郭)。
臼井城址・Ⅰ郭跡














左右を深い空堀で区切られた東側からの土橋跡、二ノ丸(Ⅱ郭)と本丸(Ⅰ郭)坂虎口(出入口)を結ぶ役目を果たしている。
臼井城土橋















二ノ丸跡(Ⅱ郭)。
臼井城二ノ丸跡














城址北側の山裾に、延元4年(1339)6代城主臼井興胤が創建した菩提寺「円応寺」。
風光明媚な広い境内は、城址と共に臼井八景の一つ「城領夕照」で知られ、門前に「臼井八景発祥乃地碑」があります。
臼井台・円応寺社頭














県64号を南下して、用水路近くの阿辰の碑へ立ち寄ります。
竹若丸(臼井佑胤の子)の乳母・阿辰(阿多津)は、志津城主志津次郎胤氏(佑胤弟)が若竹丸殺害を企てたことを知り鎌倉建長寺へと逃したが、芦原で咳をした時に見つかり殺害され、後、村人達により祀られました。
麦こがしと茶を供えると咳が治ることから咳神・お辰様とも呼ばれています。
臼井田・阿辰碑














由来を記した石碑の傍らに、延享4年(1747)建立「阿辰墓」(笠付石祠)。
臼井田・阿辰墓(石祠)















臼井宿]は臼井城の城下町として栄え、西(江戸側)から片町 上宿 中宿 下宿 新町で形成。 江戸後期、成田参詣が盛んになると、茶店や旅籠等が軒を連ね賑いました。
(臼井)
晩年、雷電は妻の生家がある臼井台で過ごし、文政8年(1825)59歳で没している。
妙覚寺と台地を挟んだ東側、妙伝寺崖下に「雷電為右衛門墓」(右側)、妻・おはん(八重)と一女と共に眠っています。
臼井台。雷電墓














新坂を下り片町へ。
臼井台・新坂














国296号に合流して左折、左の武藤自動車整備工場は、雷電為右衛門の妻おはんの実家の甘酒茶屋「天狗茶屋跡]」。
臼井宿・天狗茶屋跡














説明板「関脇時代、ここで看板娘のおはんを見初め、妻に迎えました」
臼井台・甘酒茶屋天狗茶屋説明板















やがて臼井宿の中心・中宿交差点の丁字路に突き当ります、交差点手前左角に「臼井町道路元標」、「明治天皇臼井行在所跡碑」、復元の「高札場」があります。
中宿交差点角・明治天皇碑・臼井町道路元標














安政5年(1858)刊行「成田名所図会 臼井驛」には、丁字路突き当りに高札場が描かれ、茶店や旅籠が軒を連ねた様子が描かれています。
江戸名所図会「臼井宿」















中宿交差点を右折、次の交差点を右折した奥に長源寺。 元亀元年(1570)道誉上人を開山として長源寺山に創建され、天明元年(1781)現在地に遷座。 明治6年(1873)臼井小学校に、同11年村役場が置かれている。
臼井田・長源寺














道誉(貞杷)上人は13歳で出家し、36歳で大厳寺(千葉市)開山に、4年後の弘治元年(1555)増上寺9世貫主となり、15年後当寺を開山、天正2年(1574)60才で没している。  南側墓地に道誉上人墓(無縫塔・五輪塔)。
長源寺・道誉上人墓















街道は宿外れで緩く左に折れ、京成本線を渡ると右からの県64号との丁字路に突き当ります。
正面に道標を含む石塔群
左側:文化3年(1806)新宿の商家が建立した「道標」には、正面「西 江戸道」、左面「東 成田道」、右面「南 飯重生ケ谷道」。
左2:建立年代不明「道標」には、上部に地蔵立像の陽刻、下に「さくら道」と刻まれていることから、成田道と呼ばれる以前の建立とされています。
左3:天下和順 奉納大乗如典六十六部廻国碑。右塔は不明。
佐倉市臼井田・宿外れ先の三叉路の道標














三叉路を左(国296号)へ、右に臼井氏祖・常康が創建、臼井氏一族の初期の菩提寺として知られる光勝寺。 臼井八景の一つ・「光勝晩鐘」に数えられた景勝地です。
けふも暮れぬ あはれ幾夜の ふる寺の 鐘やむかしの 音に響くらん
佐倉市臼井田・光勝寺















街道は京成本線沿いに、先で線路から緩やかに右に反れて行きます。
佐倉市臼井田・京成本線沿いの街道














(角来)
新臼井田交差点の先から八丁坂
佐倉市角来・八丁坂














坂上にある左の公園は、天保14年(1843)藩医鏑木仙安らによる佐倉藩最初の刑死者の人身解剖が行われた江原刑場跡。
「南妙法蓮華経」と刻まれた寛政8年(1796)建立「題目供養塔」が祀られています。
佐倉市角来・題目供養塔














道を挟んだ向かいの竹藪を下ると首洗い井戸がある様ですが、ちょっと足を踏み入れて見ましたが不気味な感じ、先を急ぎます。
角来・首洗い井戸の竹やぶ














やがて左高台に角来八幡神社の鳥居が見えてきます。
角来・角来八幡神社入口














創建は元禄年間と伝わる古社、祭神「誉田別命」を安置。     ※詳しくはこちらを
角来八幡神社拝殿














境内から望む佐倉城址
角来八幡神社からの佐倉城址















すぐ先で左の旧道に進むと、角来馬頭観音を祀る小堂
佐倉市角来の旧道入口














佐倉城主堀田上野介正信は、老中松平伊豆守信綱の政治を弾劾し、万治3年(1660)10月幕府に諫書を提出、江戸を無断で立ち退き佐倉城に向かう折、角来八幡神社前に差し掛かった時に疲れ果てた馬は倒れて息絶えたという。正信の諫書は認められず、江戸を無断で退去した罪により所領10万石は没収された。86年後の延享3年(1746)、正俊(正信弟)が馬の供養の為、碑を建立
しました。
尚・由来に関しては市文化財審議会委員長・青柳氏が書かれたこちらを
角来・角来馬頭観音















鹿島川の手前右に、溺死者供養の鹿嶋地蔵菩薩立像
佐倉市角来・鹿島川袂の鹿島地蔵














印旛沼に注ぐ最大河川・鹿島川(延長31.8k)に架かる鹿島橋
鹿島橋














(田町)
渡り詰めで右へ、600m程の旧道が残されている。
鹿島川沿いの旧道














かって、一帯は佐倉城址の樹木を背景に、池や小島を配した庭園に100種・4千株、松などを植裁した菖蒲園がありました。
県下で唯一の菖蒲園として、昭和33年(1958)開園した市営菖蒲園(6000㎡)は、同50年廃園となっている。
当時を偲ばせるエノキの傍らに市営菖蒲園跡碑が建立されています。
佐倉市田町・市営菖蒲園跡碑














左からの県65号と交わる歴史博物館交差点の三叉路。
佐倉市田町・歴史博物館交差点














左角に正面「岩名仁王道十三丁」、右面「飯野観音道十丁」と刻まれた天保9年(1838)建立「道標」。
飯野観音堂はここから北西2.6kに、岩名仁王堂(玉泉寺)は北東2kにある。
田町・歴史博物館交差点の道標















交差点右、国立歴史博物館入口辺りが田町門跡
歴史博物館交差点・田町門跡














(城内町)
愛宕神社下に因む愛宕坂
佐倉城址・愛宕坂














角櫓跡手前の深い空堀
角櫓跡近くの空堀















コの字形の馬出し空堀
佐倉城址公園・馬出し空堀














土塁に囲まれた本丸跡
佐倉城本丸跡














本丸西側の土塁際に夫婦モッコク(県天然記念物)。
佐倉城址公園・夫婦モッコク














園内は日差しに映える紅葉がキレイです。 以前も来ている為、今回は先を急ぎます。
佐倉城址公園の紅葉














(田町~海隣寺町)
先で右旧道へ。 海隣寺坂下の右奥に「愛宕神社」。江戸期、城内・田町門跡近くに藩主土井利勝達により祀られ、明治初期、現在地に遷座、田町の氏神として信仰されています。   ※境内の様子はこちらを
海隣寺・愛宕神社














街道は台地上へ至る坂海隣寺坂を上ります。坂名は、坂上にある海隣寺に因み、当時、急坂で荷車を押すおっぺし(後押し人夫)がいたことから“おっぺし坂”とも呼ばれました。
途中から更に急坂となり、坂上には土手等が築かれた木戸が設けられていました。。
佐原市・海隣寺坂














亥鼻城主千葉勝胤により創建された海隣寺、境外地に千葉一族墓所(市史跡)がある。
佐倉市海隣寺町・海隣寺















(鏑木町)
新町交差点角に、店舗兼主屋・左に脇蔵の旧平井家住宅(国文化財)。 江戸期(文久)、平井屋儀兵衛家は薪炭業を商う藩御用商人を務め、明治期には郵便御用取扱人(佐倉郵便局)や酒屋を営んでいました。
佐倉市新町交差点・旧平井家街道側














南側の座敷棟。
新町交差点・旧平井家南側














左に、古くから“まかたさま”の愛称で崇敬されてきた旧佐倉藩の総鎮守「麻賀多神社」。※詳しくはこちらを佐倉市鏑木町・麻賀多神社拝殿














(宮小路町)
道を挟んだ向かいに佐倉養生所跡碑
慶應3年(1867)西洋式病院として開設され、藩士や町民達に無料で治療と調薬が行われたが、半年で閉鎖されている。
佐倉市宮小路町・佐倉養生所跡碑















宮小路には江戸後期に建てられた3棟の武家屋敷があり、標識に従い神社斜向かいを南へ。
 登城時に侍が利用したという武家屋敷間にある切通しのくらやみ坂
佐倉市宮小路町・くらやみ坂














武家屋敷通り沿いに、土手と生垣が築かれた武家屋敷住宅3棟が並んでいます。
宮小路町・河原家住宅入口














佐倉藩では天保4年(1833)に居住の制が定められました。武家屋敷は藩の所有で、藩士は職務・俸禄に見合った家に住んでいました。
弘化2年(1845)以前に建築とされ、市内最古の旧河原家住宅(県有形文化財)。
室内には当時の調度品等が展示され、藩士の生活ぶりが偲べます。
佐倉市宮小路町・旧河原家住宅














くらやみ坂を挟んだ西側に天保8年(1837)以前の築旧但馬家住宅(市文化財)、隣(西)には文化年間(1804~17)の旧武居家住宅があります。
佐倉市宮小路町・旧但馬家住宅














屋敷前を左(西)へ進むと、竹林の小道ひよどり坂
ひよどり坂














新町交差点に戻り、この丁字路を右折(東)します。
信号機の下には、明治22年(1889)城下13町と将門町 鏑木村等2町2村との合併で発足(昭和29年消滅)当時の「佐倉町道路元標」があります。
佐倉市新町(旧上町)・佐倉町道路元標














(新町)
城下町の中心部、新町の町並み。
佐倉城下・旧上町の町並み














右に屋根看板や軒看板が当時を偲ばせる寛政年間(1789~800)創業「三谷屋呉服店」。
佐倉市・三谷屋呉服店














煉瓦造りの市立美術館(市有形文化財)は、旧川崎銀行佐倉支店跡で、一時期に町役場が置かれていました。正面エントランス部分が大正7年(1918)建築当時の意匠として残されています。
佐倉市新町・市立美術館














(裏新町)
美術館南側に山口家住宅(市有形文化財)。
袖蔵(明治29年築)は正面に水切り4段付、引き戸は敷居の傾斜で自動的に閉まる潜り戸があるなど、佐倉の町屋では珍しい袖蔵と店蔵が並ぶ商家建築です。
佐倉市裏新町・山口家住宅















新町の地形は馬の背の様な高台で、人々は水の確保に苦労が絶えませんでした。 江戸期、新町周辺には町の人々が掘った共同井戸は6カ所あり、裏新町にその一つ、深さ11間(約20m)の共同井戸があります。 
組合が管理し、春秋2回全員で井戸払いが行われ、汲み上げた井戸水を専門に運ぶ「みづやさん」と呼ばれた職人がいたそうです。昭和に入ると、水道の普及とともに使われなくなりました。
佐倉市裏新町・井戸















(新町)
町並情報館「佐倉一里塚」は、桂小五郎(長州藩)・山本覚馬(会津藩)等の幕末志士が宿泊した郷宿(旅籠)「油屋」の跡地です。明治期に呉服商「駿河屋」(今井家)となり、主屋部分は明治22年~25年(1889~92)頃の建築です。
佐倉市新町・駿河屋跡(今井家住宅)














敷地奥には今も水を湛えた井戸が残されています、この辺りの標高は30mで、水面まで約22mの深さの井戸です。
一里塚井戸














ビル7~8階に相当しますので、水を落としてしばらくして「シャァ~」という何とも不思議な反響音が聞こえてきました。
新町・一里塚の井戸














佐倉新町おはやし館敷地に、「高札場」が復元されています。
佐倉市新町・おはやし館














高札や「総州佐倉御城府内乃図」が掲げられている。
新町・高札場の高札














鉤の手左に、堀田加賀守正盛が弟・佐兵エ安利(19歳で卒去)の菩提を弔う為建立した宗円寺があります。 下総佐倉藩に転封の折、円覚山恵光院(松本)から現在地に移されました。
佐倉市新町・宗円寺














境内には「佐藤先生招魂之碑」(左側)、元治2年(1865)建立「二十三夜搭」等の石塔石仏群があります。
順天堂創始者・佐藤泰然の養嗣子・佐藤尚中(たかなか)(舜海)は、長崎でオランダ海軍軍医ポンペに西洋医学を学んだ後、大典医を勤め、後年に湯島に順天堂病院を開きました。
佐倉市新町・宗円寺石塔群














墓地には順天堂創始者「佐藤泰然墓」。
長崎で蘭法医学を学んだ泰然は、藩主堀田正睦の招きで天保14年(1843)佐倉に順天堂を開業し、医学の発展に寄与しました。新町・宗円寺の佐藤泰然墓所














北側の甚大寺の本堂南側に、堀田初祖から最後の藩主まで3代、生母、夫人や子孫の墓がある堀田家墓所(県史跡)があります。
佐倉市新町・甚大寺の堀田家墓所














墓所正面に堀田正睦公追遠之碑、奥南に日本開国の老中で下総佐倉藩5代・正睦墓、江戸幕府老中・大老の堀田初祖正俊墓、北側に堀田家農事試験場や旧佐倉中学開設に尽力した6代(最後の藩主)正倫墓
佐倉市新町・堀田正倫墓















南から東へ折れる鉤の手
佐倉市新町の直角に東へ鉤の手














(弥勤町~本町~藤沢町)
十字路角に、佐倉の町屋の特徴を残す石渡家住宅(市有形文化財)。 
主屋は、店(大正5年築)と住まい(明治40年築)からなる木造2F建て出桁造り建物。
佐倉市新町・東へ曲がる鉤の手角の石渡家旧宅














千葉地方裁判所の向かいに、慶長15年(1610)4代藩主土井利勝が土井家菩提寺として創建した松林寺。 寄棟造りの本堂は、利勝が春日局から譲り受けた聖観音像を安置する観音堂として建てられ、柱・組物・軒部分や須弥壇は建築当初のものが残されています。
佐倉市新町・松林寺本堂














北側に、寛永7年(1630)母の三十三回忌法要で建立された「土井利勝父母夫人供養塔」(市史跡)。
宝篋印塔の左:土井利昌(利勝の父)、中:利勝の母、右:正室。
新町・松林寺の土肥利勝父母夫人供養塔














江戸期より呉服太物を扱う老舗・三谷家住宅(市有形文化財)。
城下で唯一残る袖蔵と主屋が並ぶ商家造りの建物で、新町に支店(前述)、向かいに本店があります。
佐倉市弥勤町・三谷屋綿店














街道は下り坂になり、本町交差点手前に冠木門を構えた佐倉順天堂記念館(県史跡)。
蘭医佐藤泰然が開いた佐倉順天堂(蘭医学診療所兼塾)で、西洋医学治療と医学教育が行われ、明治期に多くの塾生が医学会で活躍しました。
佐倉順天堂記念館














建物は安政5年(1858)築、一部拡充されていますが手術用具や顕微鏡等が展示されている。
旧順天堂内














安政元年(1854)の療治定(料金表)。
当時、武士の日給は米5合が目安、それを現在に換算すると、切り傷約6,800円、眼病約4,600円、手足切断手術約136,800円になるそうです。最も健康保険制度が無い時代ですから、病気や怪我をしても医者に見てもらわず、自然治癒に任せる等大変な思いをしていたのでしょうか。
佐倉順天堂・療治定













昌柏寺先で右に延びる旧道へ。
佐倉市大蛇町分岐点














この分岐点右に地蔵菩薩立像2基が祀られています。
大蛇町分岐点の地蔵菩薩















「酒々井市」(本佐倉)
旧道は車道に合流手前で酒々井市に入ります。 

江戸期、本佐倉は藩領・本佐倉村でしたが、往来の賑わいと共に街道沿いに商家や旅籠が立ち並び、街道筋だけが村方から独立、町方が誕生して「合の宿」が形成されました。 往時の記録には、町並み25町36間・人数255人・馬12頭・辻番所が置かれていたそうです。


坂上の左に西安元年(1299)創建の「常勝山妙胤寺」。 
当初は真言宗・弥勤寺と称しましたが、本佐倉城主千葉勝胤の祈願所となり、名二字を寺名に取り日蓮宗に改称しました。
妙胤寺














かって、妙胤寺付近は猿楽の興業が行われた所で、往時の字地名が猿楽場(さかくば)バス停に残されています。
猿楽場バス停














清光寺は松平広忠(岡崎城主で家康の父)の歯骨墓が有ることから、徳川家より朱印50万石を賜っている。
火灯窓がある本堂は、天和年中(1681~4)城主大久保加賀守忠朝により寄進されました。
酒々井市本佐倉・清光寺本堂














徳川家紋「三つ葉葵」が施された本堂の蟇股
酒々井市本佐倉・清光寺本堂の蟇股














ここから1.1k北東の本佐倉城址へ向かいます。
本佐倉城址と南北に相対する向根古屋の台地上には、かっては本佐倉城の支城が築かれていました。
本佐倉案内図
本佐倉城址案内図















西側の山裾(上写真の〇)には、青面金剛・地蔵菩薩等の石塔石仏群が祀られています。 
本佐倉城址への根古谷石仏















頬を寄せ合う双体道祖神
本佐倉根古谷山裾・双体道祖神














正面に本佐倉城址(国史跡)。
本佐倉城は、戦国期(文明年間1469~87)印旛郡酒々井町本佐倉と佐倉市大佐倉に跨る将門山に、千葉輔胤が築いた連郭式平山城です。
印旛沼南岸の台地上、東西約700m・南北約850mに及ぶ広大な範囲を有し、10郭構成で内郭郡を7郭で構成されていました。千葉宗家の本拠地として、120余年・9代に渡り政治経済の中心地として栄えました。
天正18年(1590)秀吉の小田原征伐の改易後、徳川氏に接収・破却され、元和元年(1615)藩庁の佐倉城への移転と一国一城制で廃城となっている。
酒々井・本佐倉城址














手前、道を挟んだ南側(左)の田圃は「中池跡」。城内部の水源で、中島には弁天様が祀られていたそうです。
本佐倉・城内郡の水源・中池跡














南側山麓正面に妙見神社が祀られています。
本佐倉城址・妙見神社鳥居














千葉氏の守護神「妙見社」。
本佐倉・妙見神社














城内地図
城址には空堀・土塁などの遺構が完全な形で残されています。しかし既に16:30、辺りも薄暗くなり始め、街灯の無い帰り道を考え急いで引き返します。
本佐倉城














酒々井宿]は、元和元年(1615)本佐倉城の廃城後、本佐倉城の城下町を移設した宿場で、江戸側から上宿 仲宿 下宿  横町で構成されていました。 成田山詣や芝山仁王尊詣で賑い、水上交通の便から物資の集散地として栄えたと云います。

釣瓶落としです、瞬く間に夕闇が迫り、気温も下がってきました。 酒々井宿入口となる上本佐倉交差点を左折。
上本佐倉交差点(酒々井宿入口)R296















又、ここは江戸庶民の信仰を集めた成田不動と芝山仁王尊(山武郡芝山町)への分岐点で、往時、ここには道標「芝山仁王尊道」がありましたが、現在は芝山仁王尊へ移されています。
左折した右舗道に、正面「此方成田山道」、右面「手差し 東京へ十三里東京道」、左面「大坂…・」、後面「手差し 芝山へ五里 芝山仁王尊」と刻まれた明治7年(1874)建立「道標」があります。
上本佐倉・道標














(酒々井)
斜向かいに木製鳥居、奥に流造り社殿の「大鷲神社」。
上本佐倉・大鷲神社















上宿と仲宿の境に鎮座する八坂神社。
上本佐倉・八坂神社














酒々井町役場入口交差点手前に、江戸期の幕府野馬御用を勤めた「島田長右衛門・政五郎家」(町有形文化財)。
酒々井宿・島田長右衛門・政五郎家














約1.8K歩いて成田線・酒々井駅から帰途へ。
12/11快晴。




佐倉市鏑木町・麻賀多神社

麻賀多神社(鏑木町933-1)は、成田街道新町交差点の西側に鎮座、古くより“まかたさま”の愛称で親しまれています。  
創建年代不詳ですが、下総国以前の印旛国時代に朝廷が派遣した国造が代々祀ってきたことからから、平安期(794~1185)頃には既に広く知られた社であったとされます。
江戸期、佐倉城の築城と共に城地鎮護と藩総鎮守の神として、代々の城主・家臣に篤く崇敬され、社殿造営や絵馬等が奉納されてきました。
祭神「稚産霊命」を安置。

南向きに社号標「麻賀多神社」、扁額を掲げた両部鳥居。
佐倉市・麻賀多神社社頭















手水舎。 左(西)に社務所。
佐倉市・麻賀多神社手水舎















権現造りの社殿は、天保14年(1843)藩主堀田正睦公が再建。 七五三の家族連れも多く、拝殿前に無病息災を願う茅の輪潜りが供えつけられています。
佐倉市・麻賀多神社拝殿
















唐破風の懸魚「鷹」、奥小壁に「マツ・鷹」、向拝「龍」、神紋は「三つ巴紋」。
麻賀多神社拝殿彫刻


















左右の木鼻「龍」、美しい欅の木目が躍動感を感じさせます。
麻賀多神社左木鼻















右木鼻。
麻賀多神社右木鼻

















西側からの本殿(流造り)。
麻賀多神社本殿左面
















東側の本殿。
麻賀多神社本殿右
















玉垣内に、本殿に寄り添う様に推定樹齢840年の御神木「イチョウ」。
この時期は幹だけですが、葉を付けると更に迫力ありそうです。又、左手には推定樹齢340年以上の高木「シイ」が茂り、共に市保存樹林に指定されています。
麻賀多神社銀杏




























写真だと巨大さも分かりませんが、まさに御神木の貫録です。
麻賀多神社御神木




























境内から拝殿。
麻賀多神社境内から拝殿
















火防 盗賊除け 延命長寿に御霊験あらたかな祭神「伊弉諾尊 伊弉冉尊」を祀る摂社三峯神社(福禄寿)。
佐倉市・麻賀多神社摂社三峯神社(福禄寿)















病気平癒に御霊験あらたかな末社・なで恵比寿さまの疱瘡神社(祭神・少彦名命)、右に商売繁盛の神「倉稲魂命」を祀る摂社稲荷神社。
麻賀多神社・えびす神、稲荷神社
















少年時代を社で過ごし、後、金工史研究等の功績を残した鋳金家・歌人「香取秀真おいたちの碑」(市史跡)。
境内には歌碑「たけ高きますらをぶりの ちゝのみのちゝをし思ほゆ故郷は遠し
麻賀多神社・香取秀真生い立ちの碑














4代藩主堀田正愛の着具「紫裾濃胴丸」(県文化財)。  文化14年(1817)、幕末の甲冑師・増田明珍母介宗家により製作され、明治4年(1871)佐倉藩最後の藩主・6代堀田正倫が奉納したもの。
佐倉市・麻賀多神社甲冑


















御朱印。
麻賀多神社御朱印





















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